とある魔術《まじゅつ》の禁書目録《インデックス》14 鎌池和馬 / イラスト・灰村キヨタカ ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》…ルビ |…ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)殺傷域紫外線|狙撃《そげき》装置 [#]…入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから〇字下げ] ------------------------------------------------------- [#ここから3字下げ]  contents   序章 あまりに暗い聖堂 Bread_and_Wine. [#地から5字上げ]34行   第一章 早すぎる変化の速度 In_a_Long_Distance_Country. [#地から5字上げ]105行   第二章 決定打となる引き金 Muzzle_of_a_Gun. [#地から5字上げ]695行   第三章 魔術師から遠いもの Power_Instigation. [#地から5字上げ]1235行   第四章 空を覆う鋼鉄の群れ Cruel_Troopers. [#地から5字上げ]2532行   終 章 その解は次の謎へと Question. [#地から5字上げ]3287行  あとがき [#地から5字上げ]3541行 [#ここで字下げ終わり] [改ページ] [#ここから3字下げ]  序 章 あまりにも暗い聖堂 Bread_and_Wine. [#ここで字下げ終わり]  左方のテッラ。  彼はバチカンの聖ピエトロ広場にいた。広場は幅二四〇メートルぐらいの楕円形《だえんけい》で、中心からやや外れた所には噴水がある。テッラはその噴水の縁に腰を掛け、頭上の星空を静かに見上けている。  人工的な灯《あか》りの乏しい広場では、彼の顔は見えない。そのシルエットだけが優しい闇《やみ》に包まれ、一種のヴェールとして機能していた。  ちゃぽん、という小さな水音が響《ひび》く。  噴水のものではない。  テッラの右手には、安物の赤ワインが収まったガラスのボトルがあった。グラスも使わず、直接ボトルの口へ唇を寄せるたびに、ちゃぽんという音と共に容《い》れ物の中のアルコールが波を作る。  ただし、テッラの体からは飲酒による浮《うわ》ついた雰囲気《ふんいき》は感じられない。  今が昼間でテッラの顔がはっきりと見えたなら、なんて不味《まず》そうに酒を飲む男だろうと誰《だれ》もが思ったはずだ。まるで残業でもしているような顔だった。 「また飲んでいるのか、テッラ」  低い男の声が聞こえた。  テッラは噴水の縁に腰を下ろしたまま、首だけをそちらへ向ける。  そちらにいるのは、テッラと同じ『神の右席』の一人、後方のアックア。青系のゴルフウェアのような衣装をまとった男だ。  彼の隣《となり》には豪奢《ごうしゃ》な礼服に包まれた老人もいる。  ローマ教皇。  このバチカンにおいて最も力のある人物は彼のはずだが、『神の右席』が二人も揃《そろ》うとなると、不思議なぐらい存在感が翳《かげ》ってしまっている。  テッラは唇の端から垂れた赤い液体を腕で拭《ぬぐ》いながら、 「これでも一応、補充しているんですがねー。『神の血』ってヤツを」 「パンに葡萄酒《ぶどうしゅ》か。ミサの仕組みだな」 「私の『|神の薬《ラファエル》』は土を示しますから、力を補充するためには、大地の『実り』や『恵み』を利用するのが手っ取り早いのですよ」  真面目《まじめ》に返したつもりだが、アックアと教皇の両方からため息が漏《も》れた。彼らはそれぞれ、テッラの足元へ視線を落とす。  そこには、中身のなくなったボトルがゴロゴロと転がっている。  ガラスの側面に張られたラベルを見て、アックアは首を横に振りながら言う。 「安酒だな。こんなものは観光客向けのぼったくり店でもお目にかかれないであろう。『神の右席』の名を使えば、もう少しマシな銘柄を集められたはずである」 「よしてくださいよ。酒の味など分かりません。ただの儀式《ぎしき》に使ってる道具ですからねー、贅沢《ぜいたく》な事を言っては本当の酒飲みに失礼です」  アックアとテッラのやり取りを聞いて、教皇が横から口を挟む。 「……信徒の指導者としては、派手な飲酒は控えていただきたい所だがな」 「おっと、私が責められるのは心外です」  テッラは低い声で笑いながら、 「私の場合は儀式として必要に迫られているだけですが、アックアの方はそうでもないのに酒の味や銘柄に詳しいようですがねー?」  教皇にジロリと睨《にら》まれて、アックアはやや身を退《ひ》いた。  他《ほか》のメンバーとは違い、何故《なぜ》か彼だけは教皇をないがしろにはしないのだ。 「傭兵《ようへい》崩れの嗜《たしな》みだ。戦場ではそういう物も必要でな」 「ハハッ、アックアはごろつきですからねー。我々、敬虔《けいけん》な信徒と違って悪い子なんですよ」  軽い調子で口添えするテッラに、教皇は顔をしかめた。  一緒《いっしょ》にしないで欲しかったのかもしれない。  それから教皇は、三〇万人もの人員を収容できる大きな広場を見渡し、 「しかし……ろくな護衛もつけず、『神の右席』の二人に、|ローマ教皇《わたし》まで野外に集まるとはな。やはり会合は屋内で行うべきではないのか。この状況を警備の者が見たら泡を噴きかねんぞ」 「大丈夫《だいじょうぶ》じゃないですかねー。『使徒十字《クローチェデイピエトロ》』の霊装《れいそう》効果はまだ有効ですし」  テッラはワインを口にしながら、夜空を見上げて、 「気持ちの悪い空が広がっているじゃないですか[#「気持ちの悪い空が広がっているじゃないですか」に傍点]。無数の結界が衝突《しょうとつ》・競合しすぎてオーロラみたいに揺らいでいます。あの壁をぶち抜いて呪術狙撃《じゅじゅつそげき》するのは難ですよ」  元々、結界に限らず、あらゆる魔術《まじゅつ》はその方式を解けば、対処法や対抗策の逆算も可能となる。その集大成がイギリス清教の誇る魔道書《まどうしょ》図書館・禁書目録だろう。  しかし、この国全体を守る多重結界は、バチカンにある建造物の九割以上が持つ十字教的な『意味』が複雑に絡《から》み合った結果、禁書目録による解析はもちろん、もはやその最高管理者であるローマ教皇ですら全容を把握《はあく》しきれなくなっていた。  長い時間をかけて複雑な暗号を解いた所で、パスワードのパターンが一秒ごとに変化していけば、古い『解答』には何の意味もなくなってしまう。鍵穴《かぎあな》の形どころか数すら変動するのでは合鍵など作りようがない。  教皇を始めローマ正教徒の誰《だれ》にも明確な制御は行えなーなっているものの、バチカンを包む多重結界はそうやって、あらゆる解析術式を跳《は》ね除《の》けてきたのだ。 「さて、と」  テッラは言う。  空になったワインのボトルを噴水の縁に置く。  彼が聖域に持ち込んできた安酒は、今ので最後だった。  テッラはゆっくりした動作で立ち上がると、軽く背筋を伸ばしながら、 「『神の血』の補充も終わりましたし、そろそろ私は行きましょうかねー」  その言葉を受けて、アックアの眉《まゆ》がわずかに動いた。 「あれ[#「あれ」に傍点]を使うのか」  テッラは唇を薄く開いて笑う。  口調から掴《つか》み取ったのだろう。アックアの中に、苦渋の感情がある事を。 「民間人を使う事が不服ですかねー、アックア」 「……殺し合いなら、それで糊口《ここう》を凌《しの》ぐ兵隊に任せれば良いであろう」 「ハハッ、貴族様らしい意見です。しかし」  テッラは愉快そうに笑みを広げて、 「我々ローマ正教の最大の武器は、数です。二〇億人という数字は大きな強みです。わざわざこれを出し惜しみする方が不自然なんですよ。学園都市の総数はたった二三〇万。まさに文字通りの桁違《けたちが》いというヤツです」 「戦争の勝敗は人員と物資の量で決まる、か。野蛮《やばん》だな。旧時代の戦争を覗《のぞ》いているような気分である」 「本当に単純な解答というものは、昔から何一つ変わらないという事ですねー」  テッラは結界に覆《おお》われた夜空を見上げてそう言った。  浴びるように酒を飲んでいたはずだが、彼の足取りは少しも揺らがない。 「我ら『神の右席』は不完全なれど、その神秘性をもって民を導くもの」  両手を水平に広げ、片足で立ち、くるりと回るようにアックアの方へ振り返って、 「ならば怯《おび》える子羊|達《たち》には勝手に導かれてもらいましょうよ。この羊飼いである私の手によって……笛に合わせて消えていった子供達のように」 [#改ページ] [#ここから3字下げ]  第一章 早すぎる変化の速度 In_a_Long_DistanCe_Country. [#ここで字下げ終わり]  学園都市の第三学区には、国際展示場がいくつもある。  海外からの玄関である第二学区から直通の鉄道で結ばれているこの学区は、対外的な施設が数多く並んでいる学区で、ホテルなどのグレードも学園都市|随一《ずいいち》となっていた。空港の集中する第二三学区からわざわざ離《はな》れた場所にゲスト用施設が並んでいるのは、飛行場の騒音《そうおん》を宿泊施設に持ち込まないための配慮《はいりょ》でもある。  そんな第三学区では、いくつものイベントが開催される。  自動車技術の粋《すい》を集めたモーターショーや機械工学の結晶であるロボットショーなどだ。これらの展示会は単なる娯楽の企画であるというより、学園都市の最先端技術のプロモーションという意味合いが強い。統括理事会が『この水準なら街の外で転用してもよし』と認めた技術を発表し、無数の外部企業の中から最も好条件の取引相手を選び(『探す』ではなく、学園都市側はあくまでも『選ぶ』だけだ)、莫大《ばくだい》な資金を得ていく訳である。  そして今日も、そういったショーの一つが開催されていた。  展示される品々は無人制御の攻撃《こうげき》ヘリや、最新鋭の駆動鎧《パワードスーツ》装置、果ては空爆にも使える大出力光学兵器など。  イベントの名称そのものが『迎撃兵器ショー』というのだから、物騒にも程《ほど》がある。 「ぷはー」  重たい息を吐《は》く音が聞こえる。  ドーム状の国際展示場の片隅で、アタッチメントで胴体と接続された駆動鎧《パワードスーツ》に包まれていると、その格好は妙にユーモラスに見える。 「暑っついー……。なーんで駆動鎧《パワードスーツ》のデモンストレーションってこんなに疲れるじゃんよー」  ヘルメットを抱えたままウンザリした調子で呟《つぶや》く黄泉川に、傍《かたわ》らにいた作業服の女性がジロリとした視線を投げた。駆動鎧《パワードスーツ》開発チームの一員で、普段は白衣の方が慣れているのか、作業服が七五三並に似合っていない。 「安心して、貴女《あなた》だけじゃないわ。展示場全体が妙な熱気に包まれているから」  エンジニアの女性の膝《ひざ》にはノートパソコンがあり、パソコンの側面には携帯電話を薄《うす》くしたようなカードを挿《さ》していて、画面には駆動鎧《パワードスーツ》の詳細なデータが表示されている。 「そう言われても嬉《うれ》しくないじゃんよー」 「喜ばせるための発言じゃないもの」 「にしても、平日昼間に開催されてる迎撃《げいげき》兵器ショーなんてコアなイベントに、なーんでこんな大量の人、人、人が集まってるじゃんよー。これって国際展示場の収容人数オーバーしているんじゃないじゃんかー?」 「今日は記者《ビジネス》デーだから人数少ないわよ。明日は一般開放だから地獄絵図」 「そう言われても嬉しくないじゃんよー」 「喜ばせるための発言じゃないもの」  エンジニアの言葉にゲッソリしながら、黄泉川《よみかわ》は今まで抱えていたヘルメットをゴトンと床に下ろす。  このヘルメット、全幅五〇センチ近くある。学園都市を徘徊《はいかい》しているドラム缶型のロボットを被せているように見えるのだ。そのくせ、駆動鎧《パワードスーツ》の他のパーツは西洋の鎧《よろい》を少し着膨《きぶく》れさせた租度のサイズなので、かなり頭でっかちなシルエットをしていた。 「あつー。つか、もう全部脱いじゃうじゃんよ……」  言いながら、黄泉川はヘルメットのなくなった首の部分からズルズルと外に這《は》い出た。駆動鎧《パワードスーツ》の下に着込んでいるのは、特殊部隊が装着するような黒系の衣装だ。  黄泉川は動きを止めた駆動鎧《パワードスーツ》に背中を預けるように座り込み、片手を振って自分の顔になけなしの風を送りつつ、 「ったく、駆動鎧《パワードスーツ》っていうのは装甲服を着て乗り込むもんじゃないね。もっと通気性の良い、駆動鎧《パワードスーツ》専用の作業服とかないじゃんよー」 「じゃあ企画部長の出した案に乗っていれば良かったじゃない。駆動鎧《パワードスーツ》を脱いだら大胆なビキニがご登場。報道陣も拍手|喝采《かっさい》で大喜びって寸法よ」  抑揚のない声を聞く限り、思いきり他人事《ひとごと》として処理されているらしい。  黄泉川は顔中にベタベタとくっついた汗の珠《たま》をタオルで拭《ぬぐ》いつつ、 「つか、あの企画部長は何でコンパニオン談義になるとああも机から身を乗り出してくるのかね」 「趣味《しゅみ》なんでしょう、可哀想《かわいそう》に」 「そもそも、この全日本ガサツ女代表黄泉川|愛穂《あいほ》にコンパニオンのおねーさんみたいな真似《まね》ができる訳ないじゃんよ。どこをどう間違ったらこんな人選になるんだか」 「警備員《アンチスキル》ってのも大変ね。自衛隊並に雑用を押し付けられて」 「雑用を押し付けられるって事は、それだけやる事がないじゃんって話であって、つまり世界は今日も平和だなーって事なんだけど」  黄泉川は言葉を切って、周囲を見回した。  あちこちのブースで展示されているのは、色とりどりの人殺しの道具だ。  これまであった、『暴走能力者を最小限のダメージだけで捕獲する』といった色合いは影を潜《ひそ》めていた。その代わりとして登場したのは、戦車の陰に隠れたら、その戦車ごと標的を貫通するような、大威力・高殺傷力の兵器ばかりだ。  ここまで急激に方向転換を遂げた理由と言えば、 (やっぱ、これしか思いつかないじゃんか……)  黄泉川《よみかわ》がチラリと見たのは、エンジニアが扱っているノートパソコンだ。画面には今まで黄泉川がデモンストレーションで搭乗していた駆動鎧《パワードスーツ》に、小さなウィンドウでテレビ画像を表示している。  映っているのはニュース番組で、アナウンサーが原稿を読み上げている。 『現地時間で昨夜未明、フランス南部の工業都市トゥールーズで宗教団体による大規模な抗議運動が発生しました。街の中心を走るガロンヌ川に沿って数キロの道のりが人で埋め尽くされ、現在も交通を始めインフラ網《もう》に深刻な影響《えいきょう》が出ています』  録画された映像では、真っ暗な街を松明《たいまつ》の炎で明るく染めて練り歩く集団が大挙している。フランス語で罵詈雑言《ばりぞうごん》の書かれた横断幕を手にした男女や、学園都市の看板に火を点けて大きく掲げている若者などもいる。  一応彼らは『抗議活動』をしているだけであって、統制を失った暴徒ではない。それでも、数万もの数の人間が怒りを露《あらわ》にして街を練り歩く様子は、見ていて寒気を覚えるほどの威圧感を与えてくる。 『自動車関連の日本企業が点在する地域周辺などで特に活動が盛んである事から、これも学園都市に対するアンチ行動《デモンストレージョン》の一環だと推測されています。フランスは国民の八割以上がカトリック系ローマ正教徒であると言われており、同様の活動が複数の都市でも見られる事から──』  それでも、まだこの場合はマシな方だったかもしれない。  しばらく画面を眺めていると、次は黄泉川が今朝見たニュースが再び流された。 『ドイツ中央部のドルトムントでは、盗難されたと思《おぼ》しきブルドーザーがカトリック系の教会へ突っ込み、中にいた神職者九名が重軽傷を負うという事件が発生しています。これは一連の抗議行動に対する報復であると推測されていますが、現在までに犯行声明のようなものは出されていません。今後ローマ正教派と学園都市派の間で争いが激化するとの懸念《けねん》が広がっていて』  一度見たものだが、それでも忌々《いまいま》しさは拭《ぬぐ》い切れない。  まるで小さな火種が乾燥した藁《わら》の山へ燃え移るように、ここ数日で世界の動きは大きく変わった。ローマ正教側が世界中で同時に起こすデモ活動と、それに対する一部の過敏な反応が、次々と争いを加速させてしまっている。  そして、この動きに呼応するように学園都市で開催された、今回の迎撃《げいげき》兵器ショー。  一見すれば、統括理事会側からの正式な『デモには屈しないという意思表示』とも受け取れるが、 (それにしては……あまりにも手際《てぎわ》が良すぎるじゃんよ)  兵器開発というのはプラモデルを作るのとは訳が違う。開発の申請を行い、予算の計算を繰り返し、審議を通して、試作機の設計を行い、組み立てた機材で何千回も何万回もシミュレートを行い、満足する数値を叩《たた》き出して、初めて『商品』として表に出てくる。  一連のデモが激化したのはここ数日の話だ。  年単位の開発期間を必要とする兵器開発では、どうやっても追い着かない。  となると、 (学園都市はすでに準備を終えていた。世界がこんな風になるのを見越して、それを事前に止めるのではなく事後に制するために策を練ってたって訳じゃんか)  くそ、と黄泉川《よみかわ》は吐《は》き捨てそうになった。  戦争の引き金を引いたのは学園都市ではないのかもしれない。しかし、その話に乗って都合良く利益を得ようとしているのは間違いない。  と、ノートパソコンの持ち主であるエンジニアの女性が、作業服の袖《そで》で額の汗を拭《ぬぐ》いながら、  つまらなさそうにニュースの画面へ目をやった。 「どこにチャンネルを合わせても似たような感じなのよね。こういう時、バラエティの専用チャンネルとかに契約しておけば良かったなって思うわ」 「……どう思うじゃんよ、この状況」 「そうね」  兵器開発研究者のエンジニアは一呼吸置いて、 「仕事が増えるのは良くない事ね。サービス残業はもっと良くない事よ」 「今回の展示、いつもとは全く毛色が違うじゃんか」 「企画部長が張り切っていたからね。軍需産業=むさ苦しいという固定|概念《がいねん》を覆《くつがえ》せば、そこに新たな市場《マーケット》が開《ひら》けるのだーとか何とか、兵器開発の現場ですごい事言っていたわね。熱に浮かされているようだから氷の塊で殴《なぐ》っておいたけど」 「ここで公開されてる技術は、明らかに外部企業への『|売り《セールス》』を目的としていない。となると、これはもう軍事演習と同じ……ただ詳細不明の兵器群の破壊力《はかいりょく》だけを『敵』に突きつけ、その威圧感をもって外交力ードを切ろうとしているだけじゃんよ」 「まあね。破壊力は抜群だったわ。おかげで企画部長のネジが二、三本やられたらしくて、さらにフザけた事を口走るようになってしまったけど」 「取り引きされている商品にしても、展示されてるものがそのまま出荷される訳じゃない。ライフルからフルオート機能を排除して店頭に並べるように、実際には三世代も四世代もグレードを落としたものを売ってるだけ。……それって、もう学園都市の『外』の技術でもギリギリ再現できるレベルの劣化品でしかないじゃんよ」  黄泉川《よみかわ》は少し離《はな》れた壇上《だんじょう》のすぐ近くで話し合いをしている背広の男|達《たち》を見ながら、 「その上、ライセンス売買と言いながら兵器のコアとなる部分の製造は、各国にある学園都市協力派の機関が完全に掌握《しょうあく》している。製造数や配備状況を逐一把握《ちくいちはあく》できるって寸法じゃんか。ったく、学園都市はどうしてそこまでして金を集めてるんだか」 「豊富な資金があればおバカ兵器を量産できるものね。あの企画部長、今度は超巨大人型ロボを宇宙へ飛ばそうとしているらしいわよ。きっとパイロット候補は一〇代の少年ね」 「……、やる気ないじゃんね?」 「あらゆる意味でね」 [#ここから3字下げ]   2 [#ここで字下げ終わり]  そんな黄泉川|愛穂《あいほ》は知る由《よし》もないのだが、今回の大きな『争い』の中心には、とある一人の少年の存在がある。  上条当麻《かみじょうとうま》。  |幻想殺し《イマジンブレイカー》という力を持つ以外には、ごく普通の高校生であるはずの彼。しかしこの少年は、『神の右席』の言う事が正しければ、現在二〇億もの人間を敵に回している状態なのだ。この数ヶ月で彼が巻き込まれ、そしてなし崩し的に解決してきた事を思い返せば、まあ無理もない話ではあるのだが。  そういう感じで、割と争いの中心っぽい少年、上条当麻は、 「──で、何でこんな事をしたのか、先生に話してみなさい」  職員室で長身の女教師から思いっきり説教を受けていた。  より厳密に言うならば、説教を受けているのは上条だけではない。青髪ピアス、土御門元春《つちみかどもとはる》と一緒《いっしょ》に三人並んでうな垂れている。  その後ろには、何であたしがこんな所に呼び出されているんだというムカムカ顔の吹寄制理《ふきよせせいり》も立っていた。  乱雑に物の置かれたスチール製の事務机がたくさん並んでいる職員室は、お昼休みという事もあってか教師の数も多い。弁当を食べたりテストの採点をしたり電気で動く木馬に乗って体重を落としたりとやっている事も様々だ。  そんな中、親船素甘《おやふねすあま》という女教師は弁当も食べずテストの採点もせず電気で動く木馬に乗って体重をコントロールしたりもせず、安っぽい回転|椅子《いす》に腰掛け、ベージュのストッキングに包まれた足を組んで、針金みたいに硬そうな黒髪を片手でかき上げつつ、おそらく高価なブランド商品であろう逆三角形の眼鏡越しにジロリと鋭い眼光を上条達へ浴びせてくる。 「もう一度尋ねるわ。この学《まな》び舎《や》で好き勝手に大乱闘《だいらんとう》し、コブシを武器にアツいソウルをぶつけ合っちゃった理由をこの私に説明しなさい」  沈黙《ちんもく》が生まれた。  職員室の壁際《かべぎわ》に置かれたテレビからは『イタリアのサッカーリーグでは度重《たびかさ》なるデモ行進や抗議行動の結果、試合会場の安全性を保てなくなったとして、今期の試合を中止する事を決定した』とかいうニュースが流れている。 「説明できないの?」  このブランド品で身を固めた不機嫌数学女教師は、上条《かみじょう》の学校の中でも特に『しつけ』に厳しい人物という事で有名だった。上条達とは受け持つクラスが違うため、今まではあまり接点がなかったのだが、今日に限って彼女に捕まってしまった。  ちなみに上条達のクラスの担任は月詠小萌《つくよみこもえ》だが、いくら彼女でも昼休み中の教室の様子までは把握《はあく》しきれない。なので、ケンカ中にたまたま居合わせた親船素甘《おやふねすあま》が上条達を取り押さえ、職員室まで連行してきたという訳だ。  そんなこんなで、素甘の前でうな垂れている三馬鹿《さんばか》の一人、上条当麻《かみじょうとうま》はゆっくりと唇を開き、 「だって……」  意を決し、キッ!と正面を強く見据えると、 「だって! 俺《おれ》と青髪ピアスで『バニーガールは赤と黒のどちらが最強か』を論じていたのに、そこに土御門《つちみかど》が横から『バニーと言ったら白ウサギに決まってんだろボケが』とか訳の分からない事を口走るから!?」  ガタガタン! という大きな音と共に素甘が椅子《いす》ごと後ろへひっくり返った。  上条の大音量もさる事ながら、逆三角形の教育者メガネをかけた女教師には少々刺激の強すぎる意見だったらしい。  数学教師・親船素甘は三馬鹿から目を離《はな》し、その背後に立っていた吹寄制理《ふきよせせいり》に目を向けると、 「……ま、まさか、あなたもそんなくだらない論議に参加して……?」 「あたしはこの馬鹿どもを黙らせようとしただけです!! 何であたしまで引っ張られなくちゃならないんですか?」  こめかみから血管を浮かばせて吹寄は叫び返す。  とはいうものの、親船が上条達のクラスに踏み込んだ時、吹寄は土御門にヘッドロックをかけつつ青髪ピアスを蹴《け》り倒し、上条当麻に硬いおでこを叩《たた》きつけている所だったのだ、ガキ大将度で言えば間違いなく彼女がナンバーワンである。  一方、青いサングラスをかけた土御門は体を左右に振りながら、 「にゃー。ひんにゅー白ウサギばんざーい」  その言葉に黙っていなかったのは青髪ピアスだ。 「こっ、この野郎は何でもペタペタにしやがって!! っつかお前はバニーさんには興味なくて、とにかくロリなら何でもええんやろうが!!」 「それが真実なんだにゃー、青髪ピアス。この偉大なるロリの前には、バニーガールだの新体操のレオタードだのスクール水着だの、そういった小さな小さな衣服の属性など消し飛ばされてしまうんだぜい。つまり結論を言うとだな、ロリは何を着せても似合うのだからバニーガールだってロリが最強という事だにゃーっ!!」 「テメェ!! やっぱりバニーガールの話じゃなくなってんじゃねえか!!」  腕まくりをして第二ラウンドを開始する三馬鹿《さんばか》を見て、逆三角限鏡で堅いスーツの女教師・親船素甘《おやふねすあま》は椅子《いす》ごと後ろにひっくり返ったまま懐《ふところ》から取り出したホイッスルを吹く。  ピピーッ!! という甲高い号令と共に、職員室の翼から生活指導のゴリラ教師、災誤《さいご》センセイがのしのしと接近してきた。 [#ここから3字下げ]  3 [#ここで字下げ終わり]  結局、上条達《かみじょうたち》は放課後に体育館裏の草むしりをしろと命じられた。  日当たりの悪いジメジメとした空間なのに、雑草は妙に元気に育ちまくっていた。一面の緑色は、その膨大《ぼうだい》な量を見ただけで作業をする気が失《う》せるし、普段誰《ふだんだれ》も通らないような場所だから綺麗《きれい》にしても意味ないんじゃね? という空気で辺り一帯が満たされてしまっている。  だが、それにも増して上条当麻《かみじょうとうま》のやる気をコリゴリと削っていくのは、 「つっ、土御門《つちみかど》と青髪ピアスめ……雲隠れしやがったな……」  現場に立っているのは、草むしりを命令された四人の内、上条と吹寄《ふきよせ》の二人しかいない。  ポツンと残された上条は体育館裏に広がる空間を眺めて肩を落とした。薄《うす》っぺらな壁の向こうからは、バレー部やバスケ部などの放課後を満喫しています的な威勢の良い声がこちらの耳に届いてきて、不毛な草むしり作業への心理的な重い枷《かせ》がドサドサと増えていく。  とはいえ、消えた土御門や青髪ピアスにブチブチ文句を言った所で雑草はなくならない。  上条は草をゴミ捨て場へ運搬《うんぱん》するための一輪車の上に乗せてきた軍手を手に取ると、 「どうせ全部抜く前に完全下校時刻になって追い出されちまうだろ。とりあえず時間までまったりと草むしりやってようぜ」  ったく発火能力者《パイロキネシスト》でも引っ張ってくればすぐ終わるのに、と上条はブチブチ文句を言う。吹寄は『何であたしが……』と不満たらたらだったが、なんだかんだ言って上条よりも効率的に雑草を刈り取っていく。  始めて五分ぐらいで飽きてきた上条は、少し離《はな》れた所で屈《かが》み込んで作業している吹寄に話しかけた。 「そういえば、吹寄さ」 「何よ?」  吹寄《ふきよせ》も吹寄で退屈していたのか、あっさり会話に乗ってくる。  上条《かみじょう》は手を動かしながら、 「一〇月の中間テストが中止になったって話があったじゃん。にも拘《かかわ》らず吹寄さんたら休み時間も一人でテスト勉強に励みまくってるみたいだったけど、あれは一体?」  何だ、あれ、と吹寄はそっけない調子で答え、 「中闘テストがないって事は、二学期の成績は期末テスト一発で判断されるって事でしょ。テスト範囲も二倍以上に膨れ上がるでしょうし、むしろそっちの方が気が抜けないじゃない」 「……、」 「ちなみにノートは見せないわよ」  中間テストがなくなったぜイエーイ! と有頂天になっていた上条に、吹寄は淡々とした調子でとどめを刺していく。  思わぬダメージを受けた上条はいじけ虫モードになり、 「ふ、ふん。学校の勉強だけが全《すべ》てじゃないやい」 「まるであたしが勉強しかできないみたいな言い方ね」 「……、他《ほか》に何かできんの?」  できるわよ!! と吹寄は腹の底から大声で叫び、 「こう見えてもフォークボールが投げられるわ。野球とか特に興味はないけど!!」 「えー?」  上条は間延びした声を出した後、 「また通信講座とかフォークボール健康法とかじゃないだろうな」 「ま、学び方とかはどうでも良いのよ。ようは投げられるか投げられないかが問題でしょ! そんなに胡散臭《うさんくさ》い目で見るなら実践してあげてもいいわ!!」 「そんな事言われたって、ボールがないだろ」  上条は呆《あき》れたように言ったが、吹寄|制理《せいり》はスカートのポケットから握り拳《こぶし》大のボールを取り出すと、 「備えあれば憂《うれ》いなしッ!!」 「……いや、ボールの表面に『一日一〇〇回ニギニギするとα波が促進される健康ボール』とかって書かれてるぞ」  ポカンとしている上条だが、吹寄制理の方は気にしていない。彼女はかなりやる気まんまんらしく、片足でザシザシと地面をならしている。  ボールに対してキャッチャーミットがないのだが、上条は軍手を何重にもはめて厚々にすると、いかにも仕方がない感じである程度|距離《きょり》を取ってから屈《かが》み込み、吹寄のボールを受けるべく見よう見まねでキャッチャーっぽく構えてみる。  上条の目から、ため息みたいな棒読みの声が出た。 「さーどーぞー吹寄《ふきよせ》」 「ようし上条《かみじょう》。時速一五〇キロの剛速球を見て腰を抜かすんじゃないわよ!!」 「フォークで一五〇キロ!? そのハッタリに腰を抜かしそうだよ!!」  うろたえる上条。  吹寄の方は多少ノッてきたのか、白球を握り締《し》め、ゆったりと体を動かして振りかぶる。  力の『溜《た》め』の段階だが、ここで上条は思わず声を張り上げた。 「すっ、すとっ、ストーップ吹寄!!」 「何よ!!」  投球フォームを途中で遮《さえぎ》られ、吹寄はふらふらしながら叫ぶ。  しかし上条はストレートに発言する事がためらわれたため、核心を除いて告げた。 「スカート[#「スカート」に傍点]!!」 「……?」  その言葉に吹寄は眉《まゆ》をひそめ、上条の視線の意味を探り、自分の腰の辺りを眺めて、短いスカートのまま振りかぶって膝《ひざ》を上げたため大きくめくれあがったソレと、その中身というか可愛らしい柄の下着を発見して、  ──吹寄|制理《せいり》の剛速球が飛んだ。  タイミングを誤った上条のどてっ腹にゴム製の柔らかいボールが直撃《ちょくげき》し、ズパーン!! というハードな音が炸裂《さくれつ》する。  のたうち回って悶絶《もんぜつ》する上条《かみじょう》は、ぶるぶると震《ふる》えながらもこう言った。 「……な、何がフォークだ。思い切り真っ直ぐ飛んできたじゃねーか……上 「今のはナシッ!!」  男気のありすぎるごまかしを言い放ち、吹寄《ふきよせ》は上条からボールを受け取る。 「ったく、今度こそフォークボールで行くわよ。ガクンと落ちるからミットは下の方に構えて おきなさい」  とか何とか言いながら吹寄は投球フォームに入るが、上条にスカートの事を指摘された直後だからか、片足の動かし方が若干《じゃっかん》抑え気味になっている。  そのせいか体のバランスがややふらふらしていたものの、吹寄の放った一球には恐ろしい力が加わっていた。軍手を何重にも重ねた上条の乎の中で、ドパァン!! というとんでもない音が聞こえる。硬式とは違うオモチャのボールのくせに、上条の掌《てのひら》にビリビリとした痛みが走った。しかも吹寄はソフトボール選手のようなアンダースローではなく、プロ野球選手のようなオーバースローで、それがメチャクチャ決まっていた。  上条は受け止めたボールを軽くニギニギしながら、 「今の……落ちたか?」 「落ちたわよ!! 貴様は一体どこを見ているの。ちゃんとバッターの手前でカクッと落ちてたのが分からなかったの!?」 「ええー? なんか普通に投げてるようにしか見えなかったぞ」 「かっ、上条は!! バッターの視線から見ないから分からないのよ!! 実際にバットを振ってみればフォークボールのキレっぷりを味わえるはずなんだから!!」 「ほう。言ったな、吹寄」  上条はニヤリと笑うと、念のために用意しておいた数本のホウキとチリトリセットから、五〇センチ程度の長さの、プラスチックの柄《え》がついた小型ホウキを掴《つか》み取り、 「その言葉、この俺に対する挑戦と受け取った」  何となく野球のバットっぽく両手で握ると、手首のスナップだけでホウキを動かし、まるでタイミングを計るように小刻みにホウキの先端を回す。  一方、吹寄は吹寄で、上条から軽く投げられたボールを受け取ると、口元に不敵な笑みを浮かべる。 「このメジャー吹寄の勝負球を打ち返そうとは、なかなか面白い事を言うサルね」 「かっとばしますよー」 「ならば見せてあげるわ。本物のフォークの落ちっぷりと、敗北の屈辱《くつじょく》をォおおおお!!」 「場外までズバンとなァあああああああああああああ!!」  放たれる自球。  風を切る音。  本当にボールが落ちるか確認してからでは、完全に振り遅れる。  上条《かみじょう》は吹寄制理《ふきよせせいり》の真意と実力を測りかねたまま、勝負に応じるために動き始める。  全身を駆け巡る力と緊張《きんちょう》。  上条はタイミングを計り、小さく息を吐《は》き、両足に力を込め、腕の動きに合わせて腰を回し、両手で握ったホウキを横方向へ思い切りスイングして、  そして、 [#ここから3字下げ]  4 [#ここで字下げ終わり]  スーツや逆三角形の眼鏡、おまけにストッキングまでブランドもので身を固めている親船素甘《おやふねすあま》は、美人は得をする生き物だという事を理解している女性である。  もっとも、それを知っているのは昔の彼女が常々損をする役回りだったからなのだが。  どんな人間でも努力をすればある程度の美人にはなれるものだ。『上の上』とか『上の中』などを目指すのが高望みであっても、『中の上』ぐらいなら何とかなる、というのが素甘の持論だった。そして、『中の上』までいければ、美人としての恩恵がチラホラと見えてくる。  美人はお得だ。  授業中に生徒|達《たち》は話を聞いてくれるし、同僚の教師からはナメられないし、学食では席を譲ってくれたりもする。それらは全《すべ》て、一日何時間もお風呂《ふろ》に入り、寝る前には顔中に化粧水を塗り、毎日きちんと朝食を食べて、肌に影響《えいきょう》を与えないように気を配って体重を絞り、出かける前の化粧に一時間以上も時問を割《さ》き、雑誌やインターネットを駆使して洋服を買い漁《あさ》り、外と中の両方から体を磨《みが》きまくった賜物《たまもの》なのだ。  と、そんな親船素甘としては、放課後にもなると顔から化粧が落ち始めていないか、特に描いた眉《まゆ》が汗などで滲《にじ》んだりしていないかがものすごく心配になってくるのだが、『美人』というのは態度や雰囲気《ふんいき》も込みで与えられる評価なのだ。やたら化粧を気にしている様子を表に出すと『美人の恩恵』が減ったりするので、ここで何度も何度も手鏡を眺めたり化粧室との間を往復したりするのは芳《かんば》しくない。 (……、)  素甘はあちこちをゆっくりと見回す。  ここは職員室だ。この時間になると大抵の教師は部活の顧問《こもん》として出かけてしまうため、ほとんど人気はなくなる。誰《だれ》もいないならこっそり眉を確認しようかな、と素甘は考えていたのだが、 「ふひ〜。 教材作りが大変なのですよー」  割とすぐ近くの席で、見た目小学生ぐらいの女教師が目を回していた。  月詠小萌《つくよみこもえ》だ。  山積みになっている資料の山は、どう考えても一人分の教師が担当する量を超えている。元々この小さな教師は生徒一人一人の正確なデータを基に最も有効な教材を作る事で知られているのだが、今はさらに他《ほか》の教師の分も請け負っているのだろう。  現在、街の治安を守る警備員《アンチスキル》が『戦争準備』によって大量に駆り出されている状態で、いちいち教材など作っている時間がないのだ。なので、警備員《アンチスキル》以外の教師がそこを手助けする必要が出てきている訳である。  かくいう素甘《すあま》も他の教師から教材作りを押し付けられているのだが、逆三角形眼鏡教師としては、そんな事よりも月詠小萌のミニマム度合いが気になって仕方がない。 「……どんな健康法を取り入れたら、そんな瑞々《みずみず》しい肌を保っていられるのよ。というかそもそも数学的に言ってありえない数値だわ」 「???何がですか。先生は数字に強い方なので相談に乗るのですよー」  困り果てた声を聞きつけ、早速《さっそく》トテトテと近づいてくる身長一二五センチ。教育者として見習うべき所が多々あるのは認めるものの、そもそもこの先輩教師は本当に小学生じゃないのか。  月詠小萌は素甘の机にあった資料を勝手に手に取ると、一枚一枚チェックしながらフンフンと頷《うなず》きつつ、 「ところで親船《おやふね》先生。今日はウチの生徒|達《たち》がご迷惑をおかけしたようで、申し訳なかったのですよー」 「いえいえ」 「そうそう。先生としても上条《かみじょう》ちゃん達をとっちめたいのですが、あの子達って今どこにいるか分かります? ホームルームの後さっさとどこかに行ってしまったみたいなのですよ。もう帰ってしまったんでしょうか」  しまった、と素甘は声をあげた。  思わず壁に掛かった時計の方へ顔を向けてしまう。  時間はそろそろ午後六時。  草むしりを命令してから数時間も経過している。 「やばっ……。すみません月詠先生、ちょっとあの子達を回収してきます!!」 「はぁ。結局上条ちゃん達はどこにいるのですかー?」  のんびりした先輩教師の言葉を背に受けて、親船素甘は職員室から飛び出した。部活もそろそろ終わりが見えてきた時間帯で、帰宅部の生徒などどこにもいない。薄暗くなってきた廊下はほとんど無人で、そこを歩いて職員用玄関に向かっていく内に、素甘はどんどん時間の経過を実感していく。 (いや、そもそも学校でケンカを起こすような不良生徒達にはそんなに忍耐はないはず。草むしりなんてしてないで、サボって帰っているんじゃないかしら)  とは思うのだが、そもそもは三〇分ぐらいで様子を見に行って、適当に小言を言って帰す予定であったため、どうしても気が重い、なまじ罰則であるため、ここで安易に生徒へ頭を下げる訳にはいかないというのもポイントだ。  そんなこんなで、親船素甘《おやふねすあま》は職員玄関で割と高級なパンプスに履《は》き替えると、早足で体育館裏へ向かう。  そこで逆三角形眼鏡の数学女教師が見たものは、 [#ここから3字下げ]  5 [#ここで字下げ終わり] 「へいへいへーい!! 一三勝九敗、テメェのフォークボールも大した事ねーなーっ!!」  上条《かみじょう》は短めのホウキを両手で掴《つか》み、小刻みにヒュンヒュン鳴らしながら吹寄《ふきよせ》を挑発する。 「黙《だま》れッ!! 九敗もしておいて減らず口を……。っていうかそもそもちゃんとした硬式を使っていればもっとキレが出ているはずなのよ!!」  一対戦ごとに負けた方が五分間全力で草むしりをする、という新ルールが導入されてからの上条と吹寄のヒートアップぶりは半端《はんぱ》ではなく、『素直に二人|一緒《いっしょ》にまったり作業した方が楽だったんじゃね?』という事を忘れさせるぐらいに高校生|達《たち》の心は燃え上がっていた。  バットを振り回して上機嫌な上条とは対照的に、白球を握り締《し》めた吹寄は肩を大きく動かしてぜーぜーと息を吐《は》きながら、携帯電話の画面で時間を確認して、 「大体、完全下校時刻までまだ三〇分あるわ……。ここから逆転する事も十分可能ッ!!」 「つか、お前のボールちゃんと落ちてるか?」 「落ちてるって言ってるでしょうが! すごいフォーク!! バッターの手前でガクッと急降下しているのが何で分からない訳!?」 「ええー? 単に失速して放物線を描いてるだけなんじゃ……」 「ちゃんと見ろォォおおおおおおおおおおおッ!!」  吹寄が全力で吼《ほ》えながらボールを投げ放つ。  ギュオオ!! と迫り来る白球に反応するように、上条の体はフルスイングのための前動作を開始し、 (フォークボール……)  ついつい吹寄の言葉に体が反応し、短めのホウキの軌道をやや下へ修正してしまう。  しかし今回もボールは特に曲がらなかった。  普通にストレートが飛んでくる。 「テメッ……やっぱ失敗じゃねえか!!」  慌ててバットの軌道を戻そうとしても、もう遅い。  若干《じゃっかん》バットが上方向ヘズレたものの、白球の通る道まで届かない。  それでも、ホウキの柄《え》がボールの端にガチッと接触するのが分かった。 「ぐォォおおおおおおおッ!!」  上条《かみじょう》は叫んだが、ヒットの感触が逃げていくのが手首に伝わる。  ホウキの柄に掠《かす》ってチップした白球は、やや斜め上に軌道をズラし、そのまま上条の後ろへとかっ飛んでいく。 (おのれ、ミスったか!?)  この勝負にはファールの概念《がいねん》はない。バットに当たったボールが前に飛んだら上条の勝ち、それ以外なら吹寄《ふきよせ》の勝ちとなる。ストライクとボールに関しては何となく見た目で決めるだけだ。  しかもここで面倒なのが、負けた方はボールを拾ってこなければならない、という点である。ただでさえ『敗北者は全力で五分間草むしりの刑』があるのに、遠くまで飛んでいったボールを追いかけるのはかなりしんどいのだ。  なので、バット代わりのホウキを振り抜いたポーズのまま、『だー。今、一三勝九敗だろ。あ、今ので一〇敗か。牛歩戦術でわざとのろのろボールを拾いに行って勝ちを狙《ねら》ってみるかなー』などと瞬間的《しゅんかんてき》に打算を始めた上条だったが、  ぱしっ、と。  なんか、変な音が上条のすぐ後ろから聞こえた。 「……、?」  上条は訳が分からなかったが、対面している吹寄の顔がギョッとしたまま固まっていて、そこから音もなく血の気が引いていく様子がここまで伝わってくる。 (??? 後ろに何が?)  上条が振り向いたそこには、  逆三角形の眼鏡に草と土をこびりつかせた、  明らかに顔面へ白球を食らったらしい女教師・親船素甘《おやふねすあま》が立っていた。  本来なら白球は素甘のお腹《なか》の辺りに直撃《ちょくげき》するはずだったが、上条のバットがボールを掠めたせいで軌道が曲がり、思い切り顔面にぶち当たったらしい。 「……、」  親船素甘はゆっくりと深呼吸しているが、その体はどう見ても小刻みに震動《しんどう》している。  あわわわわわわわわわ、と上条が震《ふる》え始めた時にはもう遅く。  上条の懐《ふところ》へ飛び込んだ親船素甘がゲンコツを振り下ろし、そうとは知らず全力で土下座《どげざ》した上条は奇しくも素甘のゲンコツをくぐり抜け、ボールの怒りとゲンコツ空振りの怒りが相乗されて、数学教師は上条の背中をパンプスの尖《とが》った踵《かかと》で思い切り踏《ふ》み潰《つぶ》した。 [#ここから3字下げ]  6 [#ここで字下げ終わり]  親船素甘《おやふねすあま》は急いで職員室に戻ってきた。  どこかへ行ったのか、小萌《こもえ》先生はいない。  一応、すでにハンカチを使って顔についた草や土は落としてあるのだが、 (わああっ!! 土、つち、ツチーッ!! 顔についた、絶対ついた! しかも思わずハンカチで拭《ぬぐ》ったから描いた眉毛《まゆげ》が落ちてるかも!! どうするのどうするのよだぁーもう!!)  誰《だれ》から見ても分かるぐらいパニックになっていて、職員室内に誰もいないのを確認すると、化粧室に行くのも忘れてその場で手鏡を取り出して自分の顔を確認した。  とりあえず眉は大丈夫《だいじょうぶ》だ。  しかしそれだけで安心する親船素甘ではない。  美人は得をする生き物だ。  逆に言えば、美人じゃないと損をするのが人生である。 (ええと服の方は、ついてる。こっちにも土ついてる。ああここにも!? 髪も乱れてるし汗だらけだし早足で歩いたせいでストッキングも伝線してるし一体どこから手をつけたら良いのよッ!?)  とりあえずスーツの上着を脱いで、白いブラウスにまで侵入した細かい土を振り落とし、それでもしつこく残ったものを落とすため、ブラウスのボタンを外してさらにバタバタと扇《あお》ぐ。  それから破れ始めたベージュ色のストッキングを脱ぎ、カバンの中に入っていた予備のものと穿《は》き替えようとする。動作の関係上、途中でどうしてもタイトスカートが大きくめくれ上がってしまうのだが、今は気にしている余裕はない。一刻も早く、親船素甘は完壁《かんぺき》な美人女教師に復帰しなくてはならないのだ。  が、  いきなり職員室のドアがガタガタと動いた。  素甘はストッキングを足に通すため、片足をあげた状態でビクッと固まり、 「だっ、ちょっ、待って!!」  とっさに止めたのだが、 「え、何がですか?」  言葉は届いていたに違いないのに、そのままガラッとドアが開けられてしまった。  そこにいたのは上条当麻《かみじょうとうま》。  そして親船素甘は、ブラウスの前をはだけて黒い下着が見えた状態で、ストッキングを穿くためにタイトスカートをまくりあげた状態で立ち尽くしている。 「きっ───」  きゃあ、と叫ぼうとして寸前で踏《ふ》み止《とど》まる。  絶叫の代わりに近くにあっ、た自分の机へ手を伸ばすと、黒板で使うための、マグネットのついた五〇センチクラスの超大型三角定規を掴《つか》み上げて、そのまま職員室の出入り口に向けて全力で投げつける。  上条《かみじょう》が高速でドアをピシャーン!! と閉めると、ドア板に三角定規の先端が手裏剣《しゅりけん》のように突き刺さった。  ドスリと刺さった三角定規の端が、ビヨンビヨンとしなっている。  廊下の方から叫び声が響《ひび》き渡ってきた。 「おおォわァああああああッ!! 死ぬかと思ったーっ!!」 「待てと言ったのに何故《なぜ》そのまま入ってきたのか説明しなさい!!」  とりあえず穿《は》きかけのストッキングを完全に装着し、ブラウスの前を閉じ、椅子《いす》の背にかけておいたスーツの上着に袖《そで》を通して、急いで廊下に出ようとしたが、  ビッ、と。 今度は、太股《ふともも》の辺りから変な音が聞こえてきた。 「……、」  もしや封を切って二分後のストッキングがもう伝線したのか、と素甘《すあま》は思わず自分の太股の辺りを確認してしまうのだが、 「あ、あのー、すみません……」  まるでそのタイミングを計ったように上条当麻《かみじょうとうま》が再び恐る恐る職員室のドアを開けてきた。  そこには両足をOの字に開いてタイトスカートをめくり、身を屈《かが》めて自分の股間《こかん》の辺りに目をやっている親船《おやふね》素甘が。  美人どころかオンナとしても駄目になった決定的な光景だったりする。 「ッッッ!!」  今度は無言で黒板で使うための超巨大分度器を職員室の出入り口へ投げつける数学教師。もう一度閉じられたドアへ、さらに教材が突き刺さった。  廊下の向こうから震える声が飛んでくる。 「何故そのまま入ってきたのか説明するつもりだったのですがーっ!!」 「これだけ事態をこじらせるに足る重要な埋由なのでしょうね? 論理的な事実を簡潔に述べなさい!!」 「ええと、もうすぐ完全下校時刻なんですけど、草むしりはもう終わりで良いですか?」 「それだけかーっ!!」  親船素甘はこめかみの血管を膨《ふく》らませ、机の上にあった黒板で使うための超大型コンパスを掴み、それで劣等生を殴《なぐ》り飛ばそうと職員室から飛び出した。  しかし上条当麻はいなかった。  廊下をドダダダ!! と曲がり、階段に向かって消えていく人影がチラリと見えただけだ。 「何なのよ、一体……」  素甘《すあま》は思い切り脱力して呟《つぶや》いたが、その声はどこにも届かなかった。 [#ここから3字下げ]  7 [#ここで字下げ終わり] 「ちくしょう……ホントに死ぬかと思った」  上条《かみじょう》は学校を出て、暗くなってきた帰り道をトボトボと歩きながら独り言を放った。  一〇月に入ってくると、この時間帯は少しずつ肌寒くなってくる。気温の変化に応じているのか、夏場に比べると若干《じゃっかん》人の数が減っているようにも感じられた。薄暗《うすぐら》い空に浮かぶ飛行船の大画面《エキシビジョン》からは、『空気が乾燥しているので火の元に注意してください』というアナウンサーの声が飛んできている。  上条は歩道をゆっくりと進んでいる清掃ロボットを避《さ》けつつ、今日の晩ご飯は何にするかな、と考えて、駅前にあるデパートへ足を向ける事にした。冷蔵庫の中身が少し心配だ。ちょっと離《はな》れた所に行けばもっと安いスーパーもあるのだが、今からそちらへ行くと帰宅時間が遅れてしまう。すると寮《りょう》の部屋で待っているインデックスが空腹で暴れ出すという寸法だ。  そんなこんなで駅前の辺りに行ってみると、常盤台《ときわだい》中学の制服を着た茶色い髪の少女、御坂美琴《みさかみこと》の背中を発見してしまった。  しかもジュースの自販機にハイキックをぶち当てては、『ここの自販機は駄目《だめ》なのか。あれー……?』などと首を傾《かし》げている。  その様子を見た上条は、そのまま無言でくるりと一八〇度回転すると、急いでその場を離れる事にした。 「……君子危うきに近寄らず。または触らぬ神に祟《たた》りなしとも言う」 「何がよ?」  さりげなく放った独り言にすぐ後ろから返事が聞こえて、ビクゥ!! と上条の背が真《ま》っ直《す》ぐになった。  上条が恐る恐る、もう一度一八O度回転してみると、そこにはキョトンとした顔の御坂美琴が。  うう……と上条は思わず悲嘆めいた吐息《といき》を漏《も》らし、 「許してください……」 「だから何がよ?」 「上条さんは放課後の草むしりとかその他色々で本当にヘトヘトなのです! だからこれ以上のトラブルは本当に許してくださいッ!!」 「だから何だっつってんのよッ!?」  美琴《みこと》はマッハで逃げようとする上条《かみじょう》の首根っこを掴《つか》んで、その耳元で噛《か》み付くように叫ぶ。 「っつーかことあるごとに会話を切り上げようとすんじゃないわよ! この前送ったメールの返信も放ったらかしだし、あれどうなってんのよちょっとアンタのケータイ見せてみなさい よ!!」 「メール……? そんなのあったっけ?」 「あったわよ!?」  上条はちょっと考え、自分の携帯電話を取り出し、美琴に見せるようにメールボックスを開いて、それから小首を傾《かし》げると、 「……あったっけ?」 「あったっつってんでしょ!! ぎえ、受信ボックスに何にもない!? もしかして私のアドレスをスパム扱いしてんじゃないでしょうね!?」  メールの件で愕然《がくぜん》とする美琴だったが、そこで彼女はさらなる真相に辿《たど》り着く。  ボタンを操る上条の手をガシッと掴んで差し止め、受信メールフォルダにある名前を凝視《ぎょうし》すると、 「……アンタ。何でウチの母のアドレスが登録されてる訳?」 「は?」  言われてみれば、確かこの前酔っ払いの御坂美鈴《みさかみすず》と学園都市で遭遇したが……とか上条が思っていると、美琴は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せたまま親指で上条の携帯電話を操作し、件《くだん》の美鈴へ通話してしまう。 「待てって、おい?」  特にスピーカーフォンのモードにはしていないが、元々の音量が大きかった事と美琴までの距離《きょり》が近かった事もあって、上条の耳までコール音が聞こえてくる。 「ちょっと偲。聞きたい事があるんだけど」 『あれ!? 表示ミスってるのかな。ディスプレイに美琴ちゃんの番号が出てこないんだけど』  キョトンとしている美鈴の声、  美琴と美鈴の会話に耳を向けている限り、何で上条の電話に美鈴の番号があるのか、その経緯を尋ねているようだが、 『うーん』  間延びした声と共に出た結論は、 『あの少年とは夜の学園都市で会ったとは思うんだけど……ママ酔っ払ってる時は記憶《きおく》なくしちゃうからなあ。一体いつの間にこんな事になってたかはママ、にも分かんないよ、はっはっは』  うん、うん、と美琴は小さく頷《うなず》いて、通話を切った。  彼女はにっこりと微笑《ほほえ》み、携帯電話を両手で包んでお上品に上条へ返しながら、 「ア・ン・タ・は、人ん家の母を酔わせて何をするつもりだったァああああ!?」 「はあーっ!? 何だそのエキセントリックな推理は!? あとお前の母は絶対に覚えてるよ! 何故《なぜ》なら最後の笑いが超|胡散臭《うさんくさ》かったからッ!!」  ちょっと考えれば簡単に分かるはずの事なのだが、プチ家庭|崩壊《ほうかい》の危機に見舞われていると思い込んでいるせいか、何やら美琴《みこと》は顔を真っ赤にして冷静さに欠けている。  もうここは話題を変更するしか!! と上条《かみじょう》は強引な舵取《かじと》りを決行し、 「ほっ、ほらっ。上条さんは寮《りょう》に帰ってお米を研《と》がなきゃいけないし……。っつーかお前の寮も門限とかあるだろ! もう日没なんですよ!?」 「はあ、門限? そんなんちょろっと工夫すればどうとでもなるんだけど」  サラリと言う美琴に、上条は少し頭を抱えたくなった。  美琴の方は上条の心境には全く気づいていないようだが、一応話題は逸《そ》れたようだ。 「でも確かにちょっとチェックは厳しくなってるように感じるわね。ここ最近慌ただしくなってきたからかもしれないけど。前は新聞も読まなかった連中も、携帯電話のテレビ機能でニュースをチェックしたりネットで情報サイトを検索したりと忙しいみたいだし」 「……、」 「ま、流石《さすが》に誰《だれ》でも気になるわよね……。あんな風になったらさ[#「あんな風になったらさ]に傍点」  美琴が言っているのは、おそらく九月三〇日の事だろう。  今の『見えない戦争』の引き金となった、直接的な一件。  学園都市のゲートが破壊され、街の全域の住人が学生と言わず教職員と言わず片っ端から『攻撃《こうげき》』され、治安維持組織である警備員《アンチスキル》や風紀委員《ジャッジメント》の機能を完全に停止され、半径一〇〇メートル近くにわたって街並みがクレーター状に破壊された、あの事件。  その全《すべ》てが一人の人物によって行われたものではないし、複数の組織や思惑が交錯《こうさく》したおかげで、当事者である上条さえ事件の全貌《ぜんぼう》は掴《つか》めていない。……いや、本当にそれを完壁《かんぺき》に把握《はあく》できた人物はいるのだろうか、とさえ思ってしまう。  中心人物ですらそんな感じなのだから、ただ巻き込まれただけの人々に分かる事は限られているだろう。  なまじ事件の中心から外れているからこそ、『安全な位置から調べ物をする余裕』ができてしまっているのかもしれない。  そして、美琴としても学園都市が発表した『国外の宗教団体が秘密裏に科学的な超能力開発を行っていて、そこで開発された能力者|達《たち》が襲《おそ》ってきた』という話を鵜呑《うの》みにはしていないだろう。  美琴は上条の顔から視線を外し、やや遠くを見た。  ここから五〇〇メートルほど先には、とある『大天使』の出現と共に切り崩された街並みがある。九月三〇日の事件について思いを馳《は》せているのかもしれない、と上条は思ったのだが、どうも美琴が眺めているのは薄暗い空に浮かぶ飛行船のようだ。  飛行船の側面には大画面《エキシビジョン》が取り付けられており、今はニュース番組が流れている。 『今までヨーロッパ圏内で活発に行われていた、ローマ正教派による大規模なデモ行進や抗議行動ですが、今度はアメリカ国内です』  原稿を読んでいるアナウンサーは冷静だ。 『今回はサンフランシスコ、ロサンゼルスなど西海岸の沿岸都市ですが、今後これらの活動はアメリカ全体に広まっていくものと推測されています』  映像が切り替わる。  おそらくロスのものだろう。  向こうの現地時闇は深夜のはずだが、録画なのか映像は昼間だった。 (ちくしょう。また一気に拡大したな……)  上条《かみじょう》は思わず酷《ひど》い傷口を見るような顔になった。  マラソンのスタート直後のように、片側三車線の大きな道路が人の波で埋め尽くされていた。自分で用意したらしき学園都市の看板に火を点《つ》けて頭上に掲げたり、横断幕をズタズタに引き裂いたりしている。  彼らは基本的に決められた順路を数時間にわたって練り歩き、『自分|達《たち》は怒っているぞ』という事を強くアピールするのが目的だ。ただ怒りに任せて街にあるものを片っ端から壊《こわ》していく無秩序なものとは違う。  しかし、だからと言って安全ではない。  映像では、どこかで乱闘《らんとう》があったのか、頭から血を流す男が救急車の壁に寄り掛かっていた。  顔に青黒い痣《あざ》を作ったシスターが、ぐったりとした神父に肩を貸しながら助けを叫んでいる。  誰《だれ》も彼も、普通の人達だった。  超能力や魔術《まじゅつ》なんてものには縁のなさそうな人達にしか見えなかった。  確かにデモに参加している人達は、広い意味ではローマ正教の信徒なのかもしれない。首には十字架を提《さ》げているし、聖書の内容を口ずさむ事もできるだろう。  だが、彼らが『前方のヴェント』のように、ローマ正教の暗部にまで関《かか》わっているとは考えにくい。普通に学校へ行ったり会社に行ったりしているだけで、休日には家でゴロゴロしたり広い庭でバーベキューをしたり、それだけの人達のはずだ。 「……どうなってんのよ」  飛行船の大画面《エキシビジョン》を眺めていた美琴《みこと》が、ポツリと呟《つぶや》いた。 「九月三〇日に何が起きたかなんて知らないけど、別にこんなの望んでなかったじゃない。あの一件が引き金になったなんて言われても、当の学園都市は全然静かなモンじゃない。何でこいつら、勝手に殴《なぐ》り合って勝手に傷つけ合ってんのよ。黒幕は顔も出さないくせに、こいつらだけが苦しめられるなんておかしいじゃない」 「……、」  上条《かみじょう》は、美琴《みこと》の言葉を黙《だま》って聞いていた。  黒幕。  美琴は無意識の内に、その言葉を使っていた。おそらくそこに、彼女の望みがある。誰《だれ》かが話をこじらせていて、たった一個の原因を取り除けば、それで全《すべ》てが元通り……。なまじ美琴には『超電磁砲《レールガン》』という強大な能力があるため、そちらの方が分かりやすくてやりやすいのだろう。  しかし、そんな『黒幕』なんてどこにもいない。  確かに、全ての原因となった九月三〇日の事件を起こした者はいる。前方のヴェント、風斬氷華《かざきりひょうか》。さらには彼女|達《たち》の裏側にいる『何者か』それを九月三〇日の時点で綺麗《きれい》に止める事ができていれば、『黒幕を倒す』方法で丸く収められたかもしれない。  ただ、火事で言うなら、これは被害の発端《ほったん》となるような火種ではない。  結果として生じてしまった、莫大《ばくだい》な山火事そのものだ。  もはや黒幕を捕まえた所で何かを止められる段階は過ぎているのだ。  デモを起こしているのは、あくまでその辺にいる普通の人達だ。別に誰かに指示をされたから無理矢理やらされているのではなく、新聞やニュースを見て憤《いきどお》り、それだけでデモに参加しているだけ───個々の信条で動いているだけなのだ。 『黒幕を倒す』方法を使って世界中で起きているデモを止めるには、それこそ、世界中でデモに参加している人達を一人一人|殴《なぐ》っていくしかない。  そんな方法では駄目《だめ》なのだ。  だが、それならどんな方法なら万事解決するのか。 「……どうなってんのよ」  もう一度、繰り返すように言った美琴の言葉が、上条の胸に突き刺さった。  子供が考えたところで、答えは出ない。 [#改ページ] [#ここから3字下げ]  行間 一 [#ここで字下げ終わり]  処刑《ロンドン》塔はイギリスの観光名所としても知られている。  かつては囚人達《しゅうじんたち》の末路として知られ、この門をくぐった者は生きて出る事はできないとまで言われた血と拷問《ごうもん》と断頭刑の施設だったのだが、現在では一般に開放され、わずか一四ポンド足らずで……ちょっとしたお店に入ってアフタヌーンティーを楽しむよりも安い値段で、誰《だれ》でも簡単に見学できるようになっている。展示されているものも、処刑設備としての歴史だけでなく、英国王室が所有する宝石類も並べられているぐらいだ、  しかし一方で、この施設には現在も稼動《かどう》し続ける莫大《ばくだい》な『死角』が存在する。  まるで強い光によって浮かび上がる黒い影のように、観光地としての処刑《ロンドン》塔に寄り添っているが、決して表からでは見る事も入る事もできない迷路状の『死角』。現在も囚人達を捕らえ、必要とあらば拷問でも処刑でもためらいなく実行する、処刑《ロンドン》塔が処刑《ロンドン》塔という通り名をつけられた、昔ながらの役割を持った暗黒の施設群だ。  表の人口から入っても、影の部分には触れられない。  裏の入口から入ったら、影の部分から抜けられない。 「……、相変わらず、重苦しい空気だ」  ステイル=マグヌスは煙草《タバコ》の煙を吐《は》きながら、思わず呟《つぶや》いた。  観光施設とは異なり、実用重視の通路は狭くて暗い。乱雑に石を組んだ壁にはランプの煤《すす》が黒くこびりついていて、炎が揺らめくたびに人型の染《し》みが蠢《うごめ》いているように見える。湿気を逃がす機構が乏しいのか、床の表面は冷たい露《つゆ》でうっすらと覆《おお》われていた。  と、ステイルの隣《となり》を歩いている少女が声をかけてきた。  元ローマ正教のシスター・アニェーゼ=サンクティスのものだ。 「尋問対象はリドヴィア=ロレンツェッティとビアージォ=ブゾーニという事ですけど」 「彼らには『神の右席』について聞きたい事がある。一部隊を率いる君でも知らないとなると、VIP[#「VIP」に傍点]に尋ねた方が早そうだしね」 「……、しゃべると思ってんですか? あの神職貴族達が」 「ま、その辺も含めてイギリス流のやり方を見学させてあげようという訳だ。君の部隊一人一人にレクチャーするのも面倒だし、後の事はそちらに任せるけどさ」  軽口を叩《たた》くステイルは、一つの扉の前で立ち止まった。  水分を吸って黒く重たくなった、分厚い木の扉だ。  ノックもせずに開けると、その先にあるのは三メートル四方の、とても狭い小部屋だ。ここはまだ『尋問』室なので、宗教裁判にありがちな拷問《ごうもん》器具はない。ある物と言えば、せいぜい床に直接ボルトで固定されたテーブルを挟んで、同じく床に直《じか》留《ど》めしてある椅子《いす》が二つずつ設置されているぐらいだ。  向かって右側の椅子には、最低限のクッションがついている。  対して、左側の椅子は剥《む》き出しの粗雑な板だけだ。おまけに肘掛《ひじか》けの部分にベルトや金具があり、人間の腕を固定できるように作られている。  そして、左側の二脚には、それぞれ二人の人間が拘束されていた。  リドヴィア=ロレンツェッティ。  ビアージォ=ブゾーニ。  どちらもローマ正教の中では特殊なポジションにいる『重役』である。 「こちらが聞きたい事は分かっているな?」  ステイルは右側の椅子に座りつつ、面倒臭そうな調子で声を放った。アニェーゼは椅子に座るかどうか迷っているらしく、多少手持ち無沙汰《ぶさた》な感じで彼の傍《かたわ》らに立っていた。  椅子にベルトや金具で固定された中年の司教、ビアージォはジロリとステイルを睨《にら》みつける。  その視線を直接受けてはいない、元ローマ正教のアニェーゼの方が怯《ひる》んでいたが、当のステイルは気にも留めない。  健康を害さない程度に、かつ精神を削る程度に睡眠を妨《さまた》げられているせいか、ビアージォの顔色は悪い。髪や肌からも艶《つや》が消え、パサパサとした質感に変化しつつあった。 「……聞きたい事か。聖書をレクチャーして欲しいなら日曜にしろ」 「『神の右席』。知っている事を全部話せ」 「イギリス清教自慢の拷問道具でも持って来い。私の信仰心がどの程度のものか、未熟な貴様に見せてくれる」  ビアージォは不遜《ふそん》な態度を崩さない。  一方で、リトヴィアの方はそもそも会話の応酬《おうしゅう》にも興味がなさそうだ。努力して感情を消しているのではなく、本当に自然な調子で顔に変化がない。表面上に苛立《いらだ》ちを示すビアージォより、あるいはリドヴィアの方が忍耐力は強いのかもしれない。  あまりにも予想通りな対応に、アニェーゼは時間がかかりそうだ、と心の中で思ったが、 「僕|達《たち》『|必要悪の教会《ネセサリウス》』を見くびるなよ」  不遜なのは、彼らだけではなかった。  ステイル=マグヌスは煙草《タバコ》の煙をうっすらと吐《は》きながら、笑う。  ゾッとするほど酷薄《こくはく》に。 「別に拷問の過程で君達が死のうが、知った事じゃない。『|必要悪の教会《ネセサリウス》』には、死体の脳から情報を引きずり出す技術も存在する。まあ、防御や損傷の度合いにもよるけどね」  横で聞いていたアニェーゼすら背筋が寒くなるような言葉だった。  スティルの台詞《せりふ》がハッタリでない事を掴《つか》んだのだろう、ビアージォは忌々《いまいま》しそうに表情を歪《ゆが》める。リドヴィアもようやく興味を持ったように、眼球だけを動かしてジロリとステイルを見る。  ステイルの方は特に気負いもせず、面倒な作業を前にしているような、億劫《おっくう》そうな声を出す。 「君|達《たち》の言う『拷問《ごうもん》』と、僕達の言う『拷問』は、種類が違うという訳だ。死ねば楽になれるなんてナメた台詞は、通用しない。抵抗するのは構わないけど、犬死《いぬじに》だと言っておこうかな」  数秒聞、沈黙《ちんもく》が続いた。  ステイルを睨《にら》み続けるビアージォに代わり、リトヴィアの方があっさりと口を開く。 「こちらとしては、そんな些細な事などどうでも良いのですが[#「そんな些細な事などどうでも良いのですが」に傍点]」  彼女はステイルの顔を見て、言う。 「それよりも、一つ教えていただきたいのですが。現在、『外』はどうなっているので?」  その言葉を聞いてステイルは眉《まゆ》をひそめたが、すぐに思い出した。 (……言われてみれば、そんな報告も受けていたかな)  リドヴィア=ロレンツエッテイは社会に認められなかった人ばかりに手を差し伸べる、ローマ正教の中でも変わり種の存在だったらしい。  そんな彼女からすれば、処刑《ロンドン》塔に幽閉され、満足に『外』の情報を得られない状況は『保護対象』への心配ばかりを生んでいたのだろう。なまじ、断片的には『世界中の混乱』の話を耳にしているだけに。  そこまで思い出して、ステイルは口元に笑みを浮かべた。  彼は言う。 「どうせ予測はついているだろう[#「どうせ予測はついているだろう」に傍点]?」 「……、」  ピクリ、とリドヴィアの表情がわずかに動いた。  当然ながら、暴動や混乱などで真っ先に犠牲《ぎせい》となったのは、そういった弱い人々だ。 「……、ふん」  反対に、ビアージォ=ブゾーニはエリート志向の強いへ神職者至上主義の人問だ。従って、混乱の被害よりも、混乱による成果や結果に興味があるらしい。  リドヴィアはステイルの顔を見据えて言う。 「私の協力の代償《だいしょう》に、この処刑《ロンドン》塔に囚《とら》われている『仲間』達の解放を要求します。この混乱を少しでも収め、弱き人々の屋根となれる人材の解放を」  その言葉に反応したのは、ステイルではなくビアージォだった。リドヴィアのあっさりした妥協にビアージォは苛立《いらだ》たしげな態度を隠しもせず、唾《つば》でも吐《は》くように舌打ちした、  一方、ステイルの顔には余裕しかない。 「応じると思うかい」 「応じさせてみせますが」 「どうやって」  ステイルが言うと、リドヴィアはわずかに呼吸を止めた。  固定用の椅子《いす》の肘《ひじ》かけに両手を拘束されたリドヴィアの唇が、滑《なめ》らかに動く。 「───|聖ピエトロは皇帝と魔術師の魔手をかいくぐる《San Pietro elude le trappole dell' imperatore e del mago》」  その言葉を聞いて、ステイルは眉《まゆ》をひそめた。  リドヴィアからは霊装《れいそう》や呪符《じゅふ》となるものは没収している。この状態で呪文を唱えた所でろくな魔術《まじゅつ》は発動しないはずだが、  光が発生した。  リドヴィア=ロレンツェッテイからではない。  ステイルの傍《かたわ》らに控えていた、アニェーゼの胸 元にあるローマ正教式の十字架[#「ローマ正教式の十字架」に傍点]からだ。 「チッ!?」  ステイルが反応する前に、十字架から閃光《せんこう》が吹き荒れた。杭《くい》のような光は一直線にリドヴィアへ伸びると、彼女の右腕を固定しているベルトや金具を外側から強引に破壊《はかい》する。  リドヴィアは千切《ちぎ》れた拘束具の鋭い金属片を掴《つか》み、ステイルは懐《ふところ》へ手を伸ばす。  ズバン!! と、二人の手が弾丸のように交差する。 「……、」 「……、」  ステイルとリドヴィアが沈黙《ちんもく》する。  ステイルの喉元《のどもと》には金属片の尖《とが》った先端が、リドヴィアの喉元にはルーンのカードの角が、それぞれ押し当てられている。 「──ッ! リドヴィア!!」  一瞬《いっしゅん》の驚愕《きょうがく》から立ち直ったアニェーゼが、慌てて壁に立て掛けてあった『蓮の杖《ロータスワンド》』を手に取る。  しかしステイルはリドヴィアを睨《にら》みつけたまま、片手でアニェーゼを制する。  魔術師は明らかに楽しんでいた。これでこその『尋問』だとでも告げているように。 「この程度で、僕の命を奪えるとでも思っているのかな?」 「適切な人材の解放が叶《かな》わなければ、そうするしかありませんが」  リドヴィアの声は淡々としている。 「オリアナ=トムソン。彼女を解放し、暴動に呑《の》まれる人々を先導させる事を要求します」 「そんな事が言える立場かどうか、もう一度考えてみろ」  ステイルの声も、震《ふる》えていなかった。  オリアナとは、リトヴィアと紺んでいた有能な『運び屋』の事だ。 「あの『運び屋』も世界中で起きている『事態』については承知している。その上で、『指導者リドヴィア=ロレンツェッティの手による弱者|達《たち》の保護』という取引を持ち出して、イギリス清教との一時協力の契約を結んでいるからね。それから解放しろと言われた所で、オリアナ自身が承諾《しょうだく》しないだろう」 「───、」  リドヴィアもオリアナも、同じ事を考えていたという訳だ。  そして、オリアナの方が行動は早かった。  わずかに沈黙《ちんもく》したリドヴィアに、ステイルはさらに言う。 「……彼女の覚悟を無駄《むだ》にはしない事だ。この状況をローマ正教、いや『神の右席』が作り上げているとすれば、その打倒にこそ解決の糸口がある、違うかな?」  リドヴィアはしばらく答えなかった。  ビアージォは茶番だとでも言いたげに舌打ちして顔を逸《そ》らす。  重い重い沈黙の後で、彼女はゆっくりと目を開いた。 「……あなた達の望みは何なので?」 「『|必要悪の教会《ネセサリウス》』の目的は明快だ」  ステイルは退屈そうに言った、 「魔術《まじゅつ》という圧倒的な力に呑《の》まれた迷える子羊を救い出す事。今も昔もそれは変わらない」  ジロリ、とリドヴィアはステイルの目を見た。  彼は怯《ひる》まなかった。  リドヴィアはステイルの何を観察しているのか、やがてゆっくりと息を吐《は》いて力を抜いた。 「……私は直に会った事はありませんが。その断片的な情報を耳にする機会はありましたので」  暗い尋問室に、リドヴィア=ロレンツェッティの言葉が響《ひび》く。  ステイルの傍《かたわ》らにいるアニェーゼは、ようやく椅子《いす》に座って記録用の羊皮紙《ようひし》を広げた。 「それによると、『神の右席』とは───」 [#改丁] [#ここから3字下げ]  第二章 決定打となる引き金 Muzzle_of_a_Gun.   1 [#ここで字下げ終わり]  上条《かみじょう》と別れた後、当初の予定通り駅前のデパートに足を運んでいた。地下一階の生鮮食品コーナーを覗《のぞ》くと、今日は野菜が安いらしいので四日分ほどの食材を買い込んでいく。 (……しっかし、完成品の惣菜《そうざい》コーナーとかは人気だけど、野菜とかお肉とか食材系には人が集まってなかったな)  自炊派の数って減ってるのかな、と上条は首をひねりつつデパートから出る。  空を見上げると、そこにはやはり飛行船が飛んでいて、お腹《なか》の大画面《エキシビジョン》がニュースを流していた。先ほどと同じくアメリカの抗議デモ……と思いきや、今度はロシアらしい。抗議運動のニュースばかり続いているせいで、新しいものと古いものの区別がつかなくなってきていた。 「……、」  上条は両手に買い物袋を提《さ》げたまま、立ち止まって考える。  ついさっき聞いた、御坂《みさか》美琴の言葉が耳にこびりついていた。  世界中で起きているデモや抗議行動。原因がないのではなく、原因が多すぎる故《ゆえ》に解決の糸口が存在しない、あまりにも大きな『事件』。  おそらく、美琴が一番|憤《いきどお》っていたのは、九月三〇日のあの一件を利用された事だろう。自分|達《たち》が精一杯努力して、元の平和な時間を取り戻すために頑張ってきた事を逆手に取られ、新たな混乱を生み出す手伝いをしてしまったのだ。  上条だって、何とかしたい。  混乱を生み出した『前方のヴェント』にも、事情はあった。科学と魔術《まじゅつ》の中間点に立つ風斬氷華《かざきりひょうか》だって、こんな混乱を望んでいるはずがない。彼女達の顔も知らない「外野』の連中が勝手に騒《さわ》いで世界をメチャクチャにしていくなんて、どう考えても間違っている。  だが、 (どうする……)  上条は空に浮かんでいる飛行船を眺めながら、歯を食いしばった。 (問題を止めなくてはならない。そういう一番デカい目標なら簡単に分かる。でも、具体的にはどう動けば良いんだよ)  学園都市の暗部を知っている土御門《つちみかど》や、イギリス清教の神裂《かんざき》らと連絡を取るのも一つの手かもしれない。  しかし、いずれの人物にしても、ここまで肥大化した問題を丸く収める場面を、上条《かみじょう》は想像てきなかった。どちらかというと、問題がここまで大きくなる前に、先手を打って片づけてしまうのが、彼ら舞台裏の専売特許のような気がするのだ。 (とにかくここに突っ立ってても仕方がねえ。でも、イギリス清教の連絡先って分かんねえんだよな。そっちも含めて、まずは寮《りょう》に帰って土御門《つちみかど》の部屋でも訪ねてみるか)  ついでに草むしりをサボった事についても問い詰めないと、と上条は考える。  土御門のようなエージェントとの接点を持っているだけでも、普通の学生よりはマシなのかも……と上条は無理にポジティブ思考をしながら、薄暗《うすぐら》い街を歩く事にした。  ぐるぐると考え事をしながら歩いているせいか、両手の買い物袋が妙に重たく感じられた。  帰宅ラッシュで人が多い事もあるが、それにしてもよく人とぶつかるような気もする。これから部屋に帰って晩ご飯の準備をしたりお風呂《ふろ》の用意をするのが面倒臭いな、と思った。電子レンジだの炊飯器だのを使って面倒な手順をパスする近道的な料理レシピとかないかな、と彼は少々真剣に考える。普通にのんびりご飯を作っているとインデックスが空腹に耐えきれずに噛《か》みついてきそうだ。  そうこうしていると、また歩いている最中に人とぶつかった。  今度は五、六〇歳ぐらいの初老の女性だ。 「っと、すみません」 「いえいえ」  初老の女性は上品に微笑《ほほえ》むと、逆に頭を下げてきた。  腰は曲がっていないが、ただ立っているだけでも上条よりも二回りは小さい人だった。折り曲げた腕に、畳んだコートを引っ掛けている。首にはマフラーもしているし、一〇月の初めにしては随分《ずいぶん》と着込んでいる。もしかしたら冷え性なのかも、と上条は適当に予想した。 初老の女性は下げた頭を上げると、ゆったりとした口調でこう言った。 「謝るのは私の方ですから」 「あ、そんな、ぶつかったのはこっちなんだし」 「いえいえ、そうではなく」  にこにこと微笑む初老の女性に、上条は眉《まゆ》をひそめようとした。  しかし、その前に次の一言が来た。 「これからご迷惑をかける分について、ですよ」  ガチリ、という小さな金属音が聞こえた。  上条は音のした方───自分の腹の辺りに視線を落とした。  そこには初老の女性の腕があった。ただし、畳んだコートを引っ掛けてあるため、肘《ひじ》から手首の先辺りまでが薄手《うすで》の布に覆《おお》い隠されていて、全く見えない。  分かるのは、腹に当たる感触のみ。  硬い棒の先端のような感触に、上条《かみじょう》わずかに身体を強張《こわば》らせた。 「すみませんね、本当に」  初老の女性は緩《ゆる》やかに言って、もう一度頭を下げた。 [#ここから3字下げ]   2 [#ここで字下げ終わり]  御坂美琴《みさかみこと》はふと立ち止まった。 (うーん……)  あの馬鹿《ばか》に会った時にはすっかり忘れていたのだが、そういえば話しておく事があったのだ。 (……一端覧祭《いちはならんさい》)  美琴が考えているのは、学園都市全域で行われる文化祭のような行事についてだ。今年の開催日はまだ一ヶ月以上先なのだが、九月に行われた体育祭の集合体である大覇星祭《だいはせいさい》が散々な結果であったため(実際には良い事も悪い事も悲喜こもごもだったのだが、もはや彼女にはそん な感想しかない)、一端覧祭の方は早めに手を打っておこうかな、などと考えていたのだ。 (つか、七日あった大覇星祭の内の半分以上はあの馬鹿|絡《がら》みのトラブルの連続だったのよね。あんな風になるぐらいなら最初から手綱《たづな》を握っておいた方がまだマシだわ……)  手を打っておく、とはもちろん『一緒《いっしょ》に回る』約束を取り付ける事だ。 (何でこんな事になっているんだか。……まあ、別に電話でも良いか)  美琴は適当に考えながら、携帯電話を取り出す。  九月三〇日に上条と一緒にペアの契約を結んだため、美琴の携帯電話には自然と彼の電話番号が登録された。まったく面倒な仕組みだが、どうせなら使ってやらない事もない、とばかりに美琴はアドレス帳に記録されている番号にカーソルを合わせようとした所で、画面の端にあるアンテナのマークに目が留まる。  圏外だった。 「……ッ!!」  美琴はあちこちを見回し、ただでさえそんなに狭くもない通りから、本格的なメインストリートまで一気に走り、画面の端っこにあるアンテナの表示に気を配り、電波状況に問題がない事を確認してから、改めて登録番号にカーソルを合わせて通話ボタンを押す。  しかし、ただいま相手は電波の届かない場所にいるか電源が人っていないためかからない、という旨《むね》のアナウンスが無情にも流れてきた。  今度は向こうが圏外のようだ。 「つっ、使いづらい……。話したい時に話せない携帯電話なんぞに価値なんかあるかーっ!!」  美琴《みこと》が苛立《いらだ》った顔で携帯電話をしまうと、あちこちを見回して、直接|上条《かみじょう》を探すために走り出した。  別れてからそんなに時間は経《た》っていない。  どうせあの馬鹿《ばか》はその辺を歩いているだろう。 [#ここから3字下げ]   3 [#ここで字下げ終わり]  上条と初老の女性は、並んで街を歩いていた。  周りは多くの人で溢《あふ》れていたが、上条|達《たち》を訝《いぶか》しむ者はいなかった。傍《はた》から見れば、両手に買い物袋を提《さ》げた高校生と、コートを腕に引っかけた初老の女性なのだから、人畜無害な事この上ないだろう。  首を曲げず、横目で女性を見ている上条に、相手の方が失笑した。 「そんなに緊張《きんちょう》しなくても大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」  とは言うものの、携帯電話の電源は切るように命令されているし、歩幅についても細かく指示を出されている。極めつけはコートの中に隠した物品。詳細は不明だが、油断ならない状況なのは間違いない。  隙《すき》を見て飛びかかれば形勢を逆転できるかも、とも思うが、 (『中身』が分からないのがネックだよな……。下手に動いて、余計に話をこじらせたらシャレにならないし)  上条があれこれ悩んでいると、初老の女性は静かに言う。 「自然にしていてください。別に指一本動かすな、と言っている訳ではないんですから」 「……いや、そんな事言われても……。だったらそのコートの中身をどかし───」 「へっくし」 「危なぁ!!」  いきなり初老の女性がくしゃみをしたので、上条は思わず叫んでいた。  その辺を歩いている学生達が変な目でこちらを見ては通り過ぎていく。 「ですから大丈夫ですって。先ほどから何をそんなに恐れているんですか?」 「主《おも》にコートを使って周囲の目から隠さなくてはいけないナニかだよっ!! っつーか俺《おれ》は具体的に何を突き付けられてるんだ!?」 「あらあら。大丈夫大丈夫、くしゃみをした程度の動きでは出ませんから」 「でっ、出る? 飛び出す系っていうとやっぱりアレか!?」 「あと派手な音がします。音を消す小道具もありますけどね」 「結構デカいヒントだよそれ!!」  などと、上条は一人で戦々恐々としていたが、初老の女性は意に介さない。  他人にエスコートされながら歩く上条《かみじょう》は、自分が大きな繁華街を抜け、横道に入り、学生|寮《りょう》が建ち並ぶ一角へ向かっている事に気づいた、と言っても、上条の寮がある区画とはまた別だ。学園都市の住人の八割は学生であるため、『学生寮の並ぶ一角』など、そこらじゅうにあるのだ。 (一体どこに向かっているんだ……?)  得体《えたい》の知れない工場の跡地とかだったら危険度マックスなのだが、そういう雰囲気ではない。辺りの寮からは、夕食のものなのかホワイトシチューっぽい匂《にお》いが漂ってきているし、ペットNGの寮生なのか小学生ぐらいの女の子|達《たち》が建物の前に集まっている野良猫《のらねこ》達にこっそり缶詰を与えていたりもする。  そうこうしていると、初老の女性は不意に立ち止まった。 「ここですよ、ここ」 「?」  言われても、上条はピンとこなかった。  やってきたのは児童公園だった。  公園としてきちんと区画整理されたというよりは、土地開発をしたら余ってしまったスペースを消費、するために作られました、という感じだった。狭い土地に規定の数の遊具をワンセット無理矢理詰め込んだせいか、どうもぎゅうぎゅうなイメージがある。 (何で???)  誰《だれ》もいない公園の入り口を見て、上条は首をひねってしまった。  少なくとも、道端で人に何かを突き付けて、顔を見られる事を覚悟しながら案内するような 『特別な場所』ではない。 「すいませんね。入ってください」  相変わらず『コートの中身』をさりげなく突き付けた状態で、初老の女性は言う。とりあえず上条は従うしかないのだが、やはりそうまでして従わせるメリットは何なのか、さっぱり想像できなかった。  初老の女性に指示されて、公園の端っこにあるベンチに並んで腰を掛ける。  この公園に上条達以外の誰かが待っているのか、またはこれからその何者かがやってくるのかとも思ったが、そういう雰囲気でもない。  上条は少し身を屈《かが》め、二つの買い物袋を地面に下ろした。初老の女性は特に制止を促したりはしなかった。靴の中に武器でもあれば反撃《はんげき》できそうだが、上条はそんな忍者みたいな装備で身を岡めたりはしていない。  石でも拾っておくか、とも考えたが、明確なチャンスでもないのに下手に動いて警戒を高めてしまっては元も子もない。  ひとまず諦《あきら》めるとして、上条はそのまま身を起こした。  初老の女性に尋ねる。 「で、ここで一体何が始まるっていうんだ」 「いえいえ。そんな大層な事ではありませんよ」  畳んだコートの中に臆すように『大層な物』を突き付けてくる初老の女性は、にっこりと微笑《ほほえ》みながらこう言った。 「お話をしましょう」 「話?」 「ええ。現在、世界中で起きている大きな混乱について」 [#ここから3字下げ]   4 [#ここで字下げ終わり]  あの馬鹿《ばか》が見つからない。 「おかしいわねー……」  美琴《みこと》はさっきも一度入ったはずの細い道へもう一回入り、あちこちを見回しながら首をひねる。  まだ別れてからそれほど経《た》っていないと思ったのだが、最後に会った駅前へ戻っても上条はいないし、その地点から延びるいくつかの道を調べてみても、やっぱりどこにもいない。  どこかの店にでも入っているのだろうか。  あるいは、電車やバスに乗って移動してしまったのかもしれない。 (……、そもそもあの馬鹿の寮《りょう》ってどの辺にあるのかしら? ストーカーじゃあるまいし、どこに行けば会えるかなんて分かんないのよね)  特に意識しなくてもたびたび顔を合わせたりするのでそんなに離《はな》れた所にあるとは思えないのだが、よくよく考えてみると、どこに住んでいるのか想像がつかない。  美琴は腕を組む。 (まあ、一端覧祭《いちはならんさい》の事はそんなに急いでる訳じゃないし、今日は素直に帰るか)  と、気軽に考えようとしたが、視界の端に脇道《わきみち》が見つかると途端に体をそわそわさせる。 (……い、いや、最後にもうちょっとだけ)  そんな風に思いつつ、まだ調べてない道とかあったかな、と美琴は携帯電話の画面にGPS地図を呼び出したが、その時、美琴は帰宅ラッシュの人混みの中に白井黒子《しらいくろこ》の顔を発見した。  ズバッ!! と凄《すさ》まじい音を立てて美琴は建物の陰に隠れる。 (あ、あれ? ……何で隠れてんのよ私?)  自分でも疑問だが、何となく今ここにいる事をあのツインテールの後輩に見つかってはいけないような気がした。彼女は空間移動《テレポート》能力者なので、一度見つかると足で振り切るのはとても難しかったりするのだ。  大能力者《レベル4》の白井は、隣《となり》にいる少女と何かを話しながら大通りを歩いていく。  頭に大量の造花を取り付けているので、あれは多分|風紀委員《ジャッジメント》の初春飾利《ういはるかざり》だろう。 (……、)  何となく彼女|達《たち》がこっちに近づいてきているような気がするので、美琴《みこと》は建物の陰から、そのまま細い道へと入った。とりあえず奥へ奥へと進んでいく。  と、そこで気づいた。 (ん? こんな道ってあったっけ???)  改めてあちこちを観察してみると、そこは見慣れない景色だった。  第七学区の事なら大抵知っていると思ったのだが、ここに来るのは初めてだ。  場所は典型的な学園都市の住宅街だ。住宅街、と言ってもこの街の場合はマンションや一戸建てではなく、学生|寮《りょう》のビルが乱立するブロックを指す。五階から一〇階建てぐらいの、とは呼べない程度の四角い建物ばかりが並んでいる。風力発電のプロペラの真下にゴミ捨て場が設置されていた。あのプロペラの動きをハトやカラス対策としても利用しているのかもしれない。  常盤台《ときわだい》中学だと食事は全《すべ》て学校側が用意してしまうので、辺りから漂ってくる夕食の匂《にお》いは、美琴にとっては少し新鮮だったりする。 「……ま、ちょうど良いか。ここを見ていなかったら、今日はもう切り上げよう」  適当に言いながら、美琴はその住宅街を歩いていく。 [#ここから3字下げ]   5 [#ここで字下げ終わり]  上条《かみじょう》は初老の女性を不審そうな目で見た。  世界中で起きている混乱……というと、やはりここで上がる話題は一つしかない。学園都市派とローマ正教派に分かれて実行される、大規模なデモや抗議行動などだ。   しかし、 「……話し合うって言われても、そもそもこっちには話せるような事なんて何もないぞ」 「そんな事はありませんよ。この問題を解決するには、あなたの意見が必要です」 「国連の偉い人とか、どっかの国の大統領とかじゃなくてか」 「国家を主軸に置いた組織は、宗教的・思想的な混乱には弱いという側面があります」  初老の女性はすらすらと言った。  予想外の反応だった。 「俗に近代国家と言われる組織が、それらの問題を解決できた例は稀《まれ》です。『解決した』と声高に叫ぶ組織は多々ありますが、その大半は武力の行使によって無理矢埋|黙《だま》らせた、というものです。むしろ、問題を大きくこじらせてしまう事の方が多かったりもします」  誰《だれ》もいない公園で、初老の女性は続ける。  知的……と言っても色々あるが、彼女のそれは教育者のものに近かった。 「現在、世界中で起きている混乱は深刻ですが、それは簡単に止められない問題であると同時に『第二の火種』でもあるのですよ。この消し方に失敗すると、国家としての機能を麻痺《まひ》させるほどの大きな内乱に繋《つな》がる危険もある。デモや抗議行動に軍事介入が行われないのは、その辺りの事情があります。正直、今回の難しい問題に対して諸国家は解決マニュアルを欲している、というのが本音でしょう。とりあえず他国が動き、一定の効果・成果を得られるまで 様子見したい……と全《すべ》ての国家が考えているはずです」 「……アンタ、一体何者なんだ?」  上条《かみじょう》は慎重に尋ねた。  隣《となり》に座っている女性は、土御門元春《つちみかどもとはる》やステイル=マグヌスのような戦闘・暗殺を含む武闘派のエージェントとは少し違う気がする。  口調からは教育者のような匂《にお》いも受け取れるが、ただの先生がコートの中に武器を隠して接触してきたりはしないだろう。  ……これまで会ってきた人物とは、何かが違う気がする。  そう思って、上条は警戒しながら聞いてみたのだが、 「親船最中《おやふねもなか》」  いきなりフルネームが来た。 「学園都市の統括理事会の一人……と言えば、分かるでしょうか」  さらに強烈な爆弾発言が立て続けに落ちてきた。 「……、何だって?」  上条は思わず聞き返していた、  統括理事会と言えば、この広い学園都市をたった一二人で集中管理する、いわば最高機関のようなものだ。実際には彼らの上に『統括理事長』というトップが存在するらしいのだが、そうであっても統括理事会の特権ぶりは並大抵のものではない。  しかし司侍に、 (……コイツ、ホントにそんな大物なのか?)  学園都市で一二人しかいない統括理事会のメンバーなら、命令一つで警備員《アンチスキル》や私設のSP達《たち》を自由自在に操れるだろう。彼女白身が武器を持って上条に接触してくるのは変だし、呼び出された場所が小さな児童公園というのもスケールが小さすぎる。  などと訝《いぶか》しむ上条に、親船最中と名乗った女性はにこにこと微笑《ほほえ》んで、 「信じられませんか」 「ああ、ええと、変だな。首に巻いてるマフラーなんか、妙に縮んでるというか統括理事会ならもっと良い物を使ってるような気がするし」  混乱して訳の分からない事を言った上条だが、予想以上に親船の精神を揺さぶったらしい。  彼女は急に片手で首元のマフラーに触れると、 「こ、これは娘に作ってもらった手製の一品です。侮辱《ぶじょく》する事は許しません」 「そ、そうなんだ」  と、ぎこちなく頷《うなず》きかけた上条《かみじょう》だったが、そこで疑問が生じた。 「待てよ。……アンタの娘って事は年齢的には立派な大人だよな。なのにその腕前は……って分かった分かった!! もう触れない!! もう触れないからコートの中身をカチカチ震《ふる》わせるな!!」  無駄《むだ》な所で牽制《けんせい》された上条は、意味のない事で刺激するのはやめようと思った。 (親船最中《おやふねもなか》。統括理事会)  この二つの情報は正しくないかもしれない、と上条は結論付ける。 (ただ、偽名のまま俺《おれ》に接触して、何らかの正しい情報を与えようとしているのかもしれない。  何者かに踊らされるのは面白くねえけど、踊るかどうか、その踊り方はこっちで決めさせてもらうとするか) 「……そもそも話し合うって、一体何を話すんだ」  上条が切り出すと、親船の方も嬉《うれ》しそうに頷いた。 「現在、世界中では大きな問題が起きています。デモや抗議行動に代表される、一連の混乱ですね」 「それは分かってるけど」 「その解決を、あなたにお願いしたいのです」 「どうやって」  いきなりな言葉に、上条は眉《まゆ》をひそめた。 「自分の手で解決できるっていうなら、俺だってそうしたい。そんなの、世界中の人達がそう思ってんじゃないのか? でも、現実には何も変わってない。何も解けてない。解くべき問題は誰《だれ》でも分かるのに、誰もそいつを解こうとしない。それは何故《なぜ》か」  上条は親船の答えを待たずに続ける。 「手っ取り早い『理由』や『原因』なんてものが存在しないからだろ。答えのない問題なんて誰にも解けない。だから、これみよがしに問題を突き付けられても、誰も動けない。そんなの解決なんてできるのか? まさか世界中を回って、デモや抗議をやってる連中を一人一人説得していけ、なんて言うんじゃないだろうな」 「ところが」  親船最中は臆《おく》する様子もなく、答えた。  最初からその問題を予測していたように。 「その、手っ取り早い『理由』や『原因』が、存在するとしたらどうしますか[#「存在するとしたらどうしますか」に傍点]?」 「何だって?」 「ですから、私はあなたにこの話をしているのですよ。国連だの国家の代表だのといった人物でも持っていない、あなただけが持っているものに期待して」 「何の事だよ」 「右手の事ですよ」 「……、」  上条当麻《かみじょうとうま》だけが持っているもの。  彼は思わず、自分の右手に目をやってしまう。  |幻想殺し《イマジンブレイカー》。  この場合、そう考えるのが妥当だろう。魔術《まじゅつ》だろうが超能力だろうが、『異能の力』が関《かか》わっているものなら何でも打ち消す事のできる特殊能力。しかしこの力は、『異能の力』が関わっていない、デモや抗議活動といった『普通の現象』に対しては何の効果も持たない。という事は……、 「まさか……そういう事なのか[#「そういう事なのか」に傍点]」 「ええ」 「この混乱の裏にはその手の『異能の力』があって、そいつが全《すべ》ての元凶で、そのたった一つの原因をぶち壊《こわ》せば全てが元通りになるっていう事なのか。九月三〇日の『結果』じゃなくて、今もまだ『続いている』問題だからこそ今ならまだ解決できるって」 「そういう事です[#「そういう事です」に傍点]」  親船《おやふね》は簡単に頷《うなず》いた。 「ちなみに、この混乱を生み出しているのは学園都市ではありません。何でも統括理事長の話によると、科学的超能力開発機関は世界最大の宗教集団・ローマ正教の中にも存在するらしいですね」 「……?」  親船の言葉に上条は眉《まゆ》をひそめそうになったが、そこで気づいた。  世間一般では……というか、学園都市側の発表では、そういう事になっているのだ。  魔術など存在しない、 『魔術』と呼ばれる現象の正体は、かつてそういう名前で呼ばれていた、科学的な『超能力』の事なのだと。  これについては、今ここで触れても仕方がないだろう。下手に口を挟んでも余計に話をこじらせてしまうだけだ。  親船はあくまでも『科学的立場』を崩さないまま、話を進めていく。 「まぁ当然ですけど、我々学園都市側に混乱を起こすメリットはありませんからね。問題を起こすとなれば、おのずとローマ正教側になるでしょう」 「そうなのか……」  上条は頷きかけたが、冷静になると気になる点が出てくる。 「いや、待てよ。冗談だろ、あいつらだってメリットなんてねえよ。デモや抗議ってのは、ローマ正教の生活圏で起きてるんだぞ。つまり、あの混乱の真《ま》っ只中《ただなか》で苦しんでるのは、当のローマ正教徒じゃないか。自分|達《たち》の仲聞を苦しめても、良い事なんて何もないだろ」 「ところが、メリットならあるのですよ」 「……、なに?」 「簡単な事です」  親船はスラスラと言う、 「例えば、公式発表ではローマ正教徒は二〇億人もいるそうですよ。これは恐ろしい数ですね。学園都市は子供からお年寄りまで合わせても二三〇万人しかいません。いざ正面から全面戦争となれば単純な数の勝負で我々に勝ち目なし、ですね。地形の問題を考慮《こうりょ》したとしても、この人数差を覆《くつがえ》せるとは考えにくいでしょう」 「それがどうしたんだ?」 「おや。ここでおかしいと思いませんか」  上条《かみじょう》の疑問に、親船も質問で返した。 「現在ローマ正教は本気で学園都市を潰《つぶ》そうとしています。しかし、世界中のあちこちでデモや暴動を起こすというやり方を何故《なぜ》選んだのでしょうか? 彼らは何故、『学園都市を数で潰す』という分かりやすい手段を・取らないのでしょうか。世界中でバラバラに暴れさせるより、学園都市へ一極集中させた方が効果的なはずです。回りくどいとは思いませんか。本当に二〇億人もの人間を自由に操れるなら、さっさとやってしまえば良いのに」 「……、まさか」 「ええ」  親船はにっこりと笑った。 「二〇億人を操れるなんて情報はね[#「二〇億人を操れるなんて情報はね」に傍点]、嘘なんですよ[#「嘘なんですよ」に傍点]。それができるものなら、とっくにやっているはずです。確かにローマ正教の十字架を身につけ、聖書を携《たずさ》え、日曜日には教会に出かける。この世界にはそんな人達が二〇億人いるかもしれません」  しかし、と親船|最中《もなか》は唇を動かし、 「現実問題として、十字教のために殺人を犯せるか[#「十字教のために殺人を犯せるか」に傍点]……というと、話はまた変わってくるのです。それはまぁ、中にはそういう人もいるんでしょうけどね。現状、この世界は二つに分かれていると考えられています。学園都市と巨大宗教団体ですね。ですが……真実はどうなんでしょう? 本当にそこまで厳密に線引きは行われているのでしょうか」 「……、」 「日曜日に礼拝へ出かける人だって、テレビは見るし携帯電話も使うでしょう。科学的なスポーツ医学に則《のっと》って体を鍛《きた》える運動選手だって、ここ一番の大勝負では神様にお祈りするかもしれません。……学園都市の『外』、いわゆる『普通の世界』なんていうのは、そういうものなんですよ。線引きはあやふやで、両方の世界の美味《おい》しい所をそれぞれ引っ張ってきて、自分なりの信じるもので固めた自分なりの世界というものを築いているんです」 「科学サイドと、魔術《まじゅつ》サイドが……重なってる……」  上条《かみじょう》をひそめる。  そうしながらも、彼女は会話を続けていく、 「ええ。世界の大多数……『多数決の勝者』とは、そういうものなんです。何事も浅く広く───学園都市の関連機関が経営する銀行でローンを組んで人生設計しつつ、ローマ正教の教会で結婚式を挙げる……そういう、『科学と宗教のどちらの恩恵も得ている』人|達《たち》が世界を覆い尽くしている訳です」  じゃあ、と上条は言った。  喉《のど》の奥が、少しずつ渇いてくるのが自分で分かる。 「ローマ正教側の狙《ねら》いってのは……まさか、その『どちらの恩恵も得ている人達』を……」 「でしょうね。『どちらの恩恵も得ている』では困るんでしょう。二〇億人の人材は、全《すべ》て自分達が確保したい。味方はできるだけ多く抱えておきたい。だからこそ、『何か』を実行した。その結果としてどこかの歯車がこじれてしまい、デモが誘発されてしまった、という所でしょうね」 『何か』と親船は言った。  それこそが、今回の件のカギという事か。 「デモの誘発《ゆうはつ》が目的なのではありません、『混乱』というブースターを得て、彼らは学園都市によって基盤を固められてしまった世界を攻撃《こうげき》しようとしているのでしょう」  親船の言葉は、やはり科学サイドよりのものだ。  上条はそれが少し引っ掛かったが、ここで言い争っても仕方がない。 「学園都市は、ローマ正教のこの動きを特に警戒しています」 「本当に……このデモによって世界中の人達が、ローマ正教側に集まるって恐れてるからか?」  それもありますが、と親船は答え、 「たとえその通りに行かなかったとしても、別の展開が浮上する可能性もあるんです.。我々は『経済爆撃』と呼んで対策を練っている最中ですが」 「……経済、爆撃……?」 「この混乱が長引けばそれだけ経済に悪影響《あくえいきょう》を及ぼし、それが世界レベルの恐慌を起こす引き金となる危険がある訳ですね。すると、ローマ正教側が大きくならなくても、学園都市側が引き裂かれてしまうという事にもなりかねません」  経済や恐慌と言われると、高校生の上条にはいまいちピンとこなくなってくる。  ベンチの隣《となり》に座る親船に質問する。 「……そんな簡単に壊《こわ》れちまうもんなのか、近代国家って。今までだって全然揺らいだりしなかっただろ。経済とか何とか、国家レベルのお金の話とかは知らないけど、商売が原因でデカい軍隊が崩れたりするなんて想像もできないぞ」 「学園都市以外の分かりやすい科学世界の代表や象徴と言うと……いわゆる軍事大国というヤツですね。しかし、そういった国こそ経済に弱いという側面があるんですよ」  親船はゆっくりと答える。 「兵力の維持には莫大な資金が必要です。そして世界的な混乱はその軍隊を維持する資金源を絞ってしまいます。さらに、どれだけ収入が少なくなっても、軍隊は常に一定の支出を吐《は》き出してしまいます。つまり、経済恐慌が起こると真っ先にダメージを被《こうむ》るのは、そういう軍事大国なんです。軍隊が大きければ大きいほど、その崩れ方も激しくなってしまうんですよ」  そんなまさか、と上条《かみじょう》は思った。  そういう国はいくつか頭に浮かぶが、簡単に揺らぐとは思えない。 「でも、大きな軍隊を抱えてる国って、いざって時のためにものすごい量の石油を備蓄してたり、たくさんの弾薬のストックを抱えていたりするんだろ。それだけでも数年間は維持できるもんじゃないのか?」 「はは。戦争というのは実際に備蓄を失ってから起こるものではありません。それでは戦う事もできませんからね。今ある状況を眺め『このままではいずれ備蓄がなくなる』と思わせる事ができれば、それで暴走の引き金を引かせる事もできるんです。大国の暴走───それは、学園都市を中心とした科学世界を引き裂くには、十分な材料だと思いますけど」  妙にきっぱりした言い方に、上条は絶句した。  おそらく親船の頭には、その意見を裏付けるだけの数字があるのだろう。 「そういう流れが関係しているかどうかは分かりませんが……学園都市は現在、戦争のための資金を手に入れようと躍起《やっき》になっています」  親船は言う。 「足りない人数差を最新鋭の装備や無人兵器などで補おうとしているのか……それとも他《ほか》の理由があるのか。兵器の展示会を開き、量産化に応じて商品用にグレードを落とすという名目で、実質的には大したテクノロジーを使わなくても製造できる『つまらない兵器』を学園都市製の新兵器として高値で売りさばいているんです」 「……、」 「一方で、ローマ正教の方も戦争資金を集めています。『信徒からの寄付』という形でね。名目上は『混乱を収めるための平和基金』という事になっていますし、募金している側に深い意図はないのでしょうが……彼らの上層部がどういう意味を込めて『平和のために使う』と言っているかは明白ですね」  混乱が大きくなればなるほど、『基金』に集まる額は増える。  ローマ正教は二〇憶人の信徒を抱える一大宗派であり、一人一円の募金をしても二〇億円が集まってしまう。もちろん義務ではないから募金に参加しない人物も少なくないだろうが、裕福な層の中には『寄付の額の多さがステータスになる』という風習もあるそうで、実際に集まっている額は二〇億など軽く超えているらしい。 「免罪符の制度が形を変えて残っているんでしょうね」  親船《おやふね》は良く分からない事を言う。  免罪符というのは歴史か何かに出てくる単語だろうか? 「よほど熱心な人でもない限り、科学と信仰を天秤《てんびん》にかければ、普通は科学を選ぶでしょう。この世界には天国があると言われた所で、『天国があるから死んでも大丈夫《だいじょうぶ》だよ』とはいかないでしょう。科学は即物的であるが故《ゆえ》に、軽蔑《けいべつ》するほど簡単に理解できます。そして、簡単に理解できるものにこそ人は集まっていく。しかし、それでは困る人|達《たち》がいる。そう思った人達は何らかの小細工を行った。その『小細工』は正常に動いていた人の心の歯車に何らかの影響《えいきょう》を及ぼして、結果として大きな混乱を招いてしまった私はそう睨《にら》んでいます」 「……、」  この話は本当だろうか。  例えば、この聞題をローマ正教ではなく学園都市側が起こしたという考えはないだろうか。  学園都市は二二〇万人という数で、二〇億人の信徒を抱えるローマ正教と戦わなくてはならない。だから、少しでも敵の戦力を削《そ》ぐためにローマ正教側に混乱を起こした。そういう風には考えられないだろうか。 (……、難しいな)  今回のデモや抗議活動の中心人物は確かにローマ正教徒だが、親船|最中《もなか》の言う通り『浅く広く』な彼らは直接的な戦力ではないし、ローマ正教の魔術的《まじゅつてき》な側面を正しく理解していないはずだ。まさか、あのデモ活動にアニェーゼ=サンクティスやビアージォ=ブゾーニみたいな大物が参加して好き勝手に暴れ回っているとは考えにくい。  学園都市が策を巡らせたとして、『本当の戦力』にダメージが加わるとは考えにくい。  むしろ、デモに参加する人達が『科学と魔術の中間地点』にいる人達なら、彼らだって資本主義を支える大事な人材のはずだ、本来働くべき人達がデモ活動に夢中になって働かなくなれば、それだけで経済的な打撃《だげき》に繋《つな》がる。それが二〇億人になれば、経済損失は洒落《しゃれ》にならないだろう。戦争中でとにかーお金が欲しいのなら、わざわざ自分の資金源を絞るような真似《まね》はしないはずだ。  もしも裏で何らかの陰謀《いんぼう》が行われていたとしたら、この混乱はローマ正教が起こしたものだと考えた方が妥当だ、と上条《かみじょう》は思う。どちらにでも転ぶ人達を取り込むために。  そしてローマ正教の暗部が関《かか》わってくると、やはり|幻想殺し《イマジンブレイカー》の価値も高くなってくる。 「でも、だ」  そこまで考えてから、上条は口を開いた、 「仮にローマ正教が動いてたとして、そこに何らかの『トリック』が関《かか》わっていたとして。そいつは一体どんなものなんだ? 俺《おれ》の力なんてちっぽけなものだ。どこにいるかも分からない、何を使っているかも分からない。そんな相手に手が出せるような便利な力は持ってない。何かをやらかすなら、最低限その舞台まで案内して欲しいもんだけどな」 「ええ。それはですね───」  言いかけた親船最中《おやふねもなか》の言葉が、途中で切れた。  小さな児童公園に、新たな人影が現れたからだ。 「土御門《つちみかど》?」  サングラスをかけたその顔を見て、上条《かみじょう》は思わず呟《つぶや》いた。  上条のクラスメイトの、土御門|元春《もとはる》だ。放課後までは学校にいたはずだが、草むしりの時間になるといつの間にかどこかへ消えていた人物。上条はその事について尋ねようかとも思ったが、あまりにも場違いなのでやめておいた。  言えるような雰囲気《ふんいき》ではない。  上御門の纏《まと》う、雰囲気は、いつものものとは全く違う。 「───話は終わったか」  土御門は、上条に話しかけてはいなかった。  青いレンズの入ったサングラス越しの瞳《ひとみ》は、親船最中しか見ていない。  対して、親船の方も驚いていなかった。  エージェントとしての土御門元春と、面識があるのかもしれない。 「まだ終わってはいませんが、もう良いでしょう。……あなたになら、任せられます」 「そうか」  土御門は短く言った。  そこで小さく息を吐《は》く。まるで面倒な仕事の前にうんざりしているようにも見えた。 「気持ちの整理は済んでいるんだな」 「咋日の内に」 「始めてしまうが、構わないな」 「あなたがためらう事ではありません」  親船最中がにこりと微笑《ほほえ》んで答えると、土御門はわずかに顔を逸《そ》らした。  そのまま彼は背中に手を回すと、ズボンのベルトから何かを抜き取った。 「つ、ちみかど?」  自分を抜きにして進められる会話に戸惑っていた上条は、そこで信じられないものを見た。  上御門の右手にある、黒光りする金属の塊。  全長、わずか一五センチほどの物体。  その正体は、 (……、拳銃《けんじゅう》?)  そこまで考えても、上条《かみじょう》は土御門元春《つちみかどもとはる》を止められなかった。  次の行動が読めなかったから、ではない。  読めていたとしても、そんな酷《ひど》い予想の通りに彼が動くとは思わなかったからだ。    バン!! という乾いた銃声が小さな児童公園に響《ひび》き渡った。  親船最中《おやふねもなか》は、それでも笑っていた。  彼女の体が揺らぎ、そのままベンチから土の地面へと崩れ落ちた。 [#ここから3字下げ]   6 [#ここで字下げ終わり]  突然聞こえた大きな音に、美琴《みこと》の肩がビクリと震《ふる》えた。  火薬の弾《はじ》けるような音だった。  甲高い音は彼女の耳を突き抜け、さらに山彦《やまびこ》のように空へと響いていく。 (なっ? 何よ今の???)  花火だろうか、とも思ったが、一〇月では流石《さすが》に季節外れだ。  他《ほか》の可能性というと、発火系の能力者が何かをやったのかもしれない。  周囲にある学生|寮《りょう》のビルからは、いくつかの窓が開く音がした、やはり、あれだけ大きな音だと気になるのだろう。 しかし、わざわざ建物の外まで出てくる学生はいなかった。夕食の準備を中断してでも野次馬《やじうま》になろうと言うほど興味を引いている訳でもないのだろう。 (能力者が暴れてる、か)  面倒臭い事になってきたな、と思いながらも、美琴はそちらへ足を向ける。  彼女は超能力《レベル5》クラスの発電能力者《エレクトロマスター》、超電磁砲《レールガン》だ。大抵の能力者なら自分一人でどうとでもできるし、事件に巻き込まれたって逆に返り討ちにする自信がある。仮に暴走能力者と警備員《アンチスキル》、がぶつかっていて、そのど真ん中に放り込まれたとしても、美琴なら無傷で帰還できるだろう。  そんな彼女も、かつては自分一人ではどうにもならない問題[#「自分一人ではどうにもならない問題」に傍点]に直面した事もあるのだが……。 「……ッッッ!! そ、そもそもあれは中心人物の二人がイレギュラー過ぎたのよ! しかも今は全然関係ない! とっ、とにかく音のした方へ行ってみよう。 ええと、あっちだっけ?)  美琴はぶんぶんと首を横に振って気を引き締めると、大きな音のした方へと歩いていく。  一見すると、この住宅地はどこもかしこも学生寮しか見えない。 [#ここから3字下げ]   7 [#ここで字下げ終わり]  親船最中が腹を撃たれた。  上条《かみじょう》がその事実に気づくまで、数秒の時間が必要だった。  土御門元春《つちみかどもとはる》が撃《う》った。  そう気づくまで、さらに数秒の時間が必要だった。  親船は抵抗をしなかった。コート越しに上条へ何かを突き付けていたが、それを土御門へ向けようという気配もなかった。あらかじめ全《すべ》てを理解した上で弾丸を受けた。そんな感じの光景だった。 (つ、ち、みか、ど?)  上条は、倒れ込んだ親船から、ゆっくりと規線を移していく。  上御門元春の顔に、変化はない。  右手に持った拳銃《けんじゅう》からは、今も白い煙がうっすらと漂っている。土御門はその銃を背中に回し、ズボンのベルトに挟んで詰襟《つめえり》の裾《すそ》で隠すと、地面に落ちた空の薬莢《やっきょう》を拾い上げ、それをポケットの中へ収めていく。  何もかもが淡々としていて、単なる作業のようだった。  それが、上条の感情を爆発させた。 「土御門ォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」  上条は勢い良くベンチから立ちあがると、上御門のシャツを掴《つか》み上げた。それでもサングラス越しの瞳《ひとみ》に変化がない事を知ると、上条はほとんど反射的に拳《こぶし》を握り締《し》め、彼の顔面を思い切り殴《なぐ》り飛ばした。指や手首の関節に、人を殴った時特有の鈍い感触が跳ね返る。土御門《つちみかど》の上半身は仰《の》け反り、そのまま地面に崩れた。しかし、尻餅《しりもち》をついた彼の表情は、やはり何も変化していなかった。ダメージなど、微塵《みじん》も感じていないに違いなかった。 (この野郎ッッッ!!)  上条《かみじょう》は歯を食いしばって、さらに一歩前へ進む。  しかしそこで、上条は妨害を受けた。  弱々しく、上条の足首を掴《つか》む小さな手。  その正体は、土御門に撃《う》たれたはずの親船最中《おやふねもなか》のものだった。 「……彼、を……」  土に触れたままの唇を動かして、彼女は言う。 「彼を……責めないで、ください……」  その台詞《せりふ》は、上条を混乱させるには十分なものだった。  親船最中は、さらに続ける。  微笑《ほほえ》みながら。  ここで怒ってくれた上条に、感謝をするような顔で。 「私の、行動は……学園都市の代表である、統括理事会全体の思惑とは、異なる、ものなんです……」 「なに?」 「彼らは、戦争の激化と……ローマ正教を代表とする、もう一つの宗教という名の科学サイド[#「もう一つの宗教という名の科学サイド」に傍点]の徹底的《てっていてき》な破壊《はかい》を、望んでいます……。この混乱に、乗じたいのですよ。ですから、これが、簡単に収まってしまっては、困るのだそうで……」  上条はもう一度土御門の顔を見た。  相変わらず、彼の顔に変化はない。  まるで最初から全《すべ》てを知っていたかのような顔だった。 「戦争の激化など……そんな馬鹿《ばか》げた事は、止めなければ、なりません」  親船は、ゆっくりと言う。  その言葉の中に、痛みが混じっている。 「しかし、統括理事会の一人と言っても、使える力は、限られています。私には、できないのですよ。この状況を覆《くつがえ》す事……など、……『上』の意志に反した事で、力を奪われた者に、できる事など、たかが、知れています。ですから、接触する、必要があった。本当に、状況を打破できる、人物に……」  彼女は上条を見ていた。  上条の目を見て言っていた。 「……いずれ、この接触は、必ずバレます。ですから、私には、反逆に対する……『制裁』が、加えられる手はずに、なっていたんです。私、一人ならば、回避《かいひ》する事もできましたけど……その場合は、『制裁』の矛先が、変わってしまう」  矛先。  そこまで考えて、上条《かみじょう》の背筋に寒いものが走り抜けた。 「本人が逃げるなら家族を狙うって、そういう話か……?」 「───、」  親船《おやふね》は答えなかった。  人を心配させたくないとでも言っている沈黙《ちんもく》だった。 「……彼には、私から……頼《たの》みました」  代わりに、親船はそう言った。 「一応、補足しておきますと……彼は、嫌だと言っていましたよ。ですから、彼を、責めないでください……。急所を的確に外して『制裁』する……そういう無理な注文をお願いしたのは、私自身なんですから……」 「しゃべるな」  そこまできて、土御門元春《つちみかどもとはる》は口を挟んだ。  地面からゆっくりと立ち上がると、彼は親船|最中《もなか》の顔を覗《のぞ》き込んだ。  上条の位置からでは、土御門の表情は見えない。  彼にも、見せる気はないだろう。 「後はこっちでやる。お前はお前の役割を完壁《かんぺき》に果たした。お前にも色々言いたい事があるんだろうが、こっちから答えられる事は一つだけだ。安心しろ。お前はそれだけ覚えていれば、それで良い」  土御門の言葉に、親船は倒れたまま、ゆっくりと笑みを深くした。  その首には、手製のものらしい、あまり出来の良くないマフラーがある。  親船最中の戦う理由は、おそらくそれだ。  学園都市とローマ正教が起こす諍《いさか》いを止めるのも、そのための『制裁』を他《ほか》に回さないように手を打ったのも、全《すべ》てはそこに収束される。土御門は身を屈《かが》めて親船の持ち物を漁《あさ》ると、そこから携帯電話を取り出して、救急車を呼んだ。指紋を拭き取ってから地面に置く。  親船最中のコートから、土御門は何かを取り出した。  護身用の小さな拳銃《けんじゅう》に見えた。  土御門はそれをズボンのベルトに挟みながら、こちらに目をやった。 「今すぐ動けるか、カミやん」 「分かってるよ」  歯を食いしばり、地画に倒れている馬鹿《ばか》な女を睨《にら》みながらおれぜんだ 「……俺を動かすために、それだけのために、わざわざこんな大それたお膳立てをしたんだろ。ふざけやがって。回りくどいにもほどがあるだろ、こんなの」  上条当麻《かみじょうとうま》は、別にご高名な人物ではない。  彼を動かしたいなら、頭ごなしに上から物を言えばそれで済むだけの話だ。  なのに、そんな小さな事を頼《たの》むだけでも、命をかけなくてはならない状況もある。  それを思って、上条は右手に力を込めた。 「説明は後だ。時間がない」  土御門《つちみかど》はそう言った。 「第二三学区へ向かうぞ。航空機の用意がある。今回限り、親船最中《おやふねもなか》の力を使って準備させたものだ。そいつを無駄《むだ》にさせるつもりはない」 「クソッたれが……」  上条は土御門の後に続いて児童公園の外に出ながら、小さく呟《つぶや》いた。  児童公園には、血まみれの親船最中だけが取り残される。  遠くから聞こえる救急車のサイレンを聞きながら、上条は歯を食いしばった。 [#ここから3字下げ]   8 [#ここで字下げ終わり]  御坂美琴《みさかみこと》が見つけたのは、小さな児童公園だった。  元々公園を作るために区画整理したというよりは、周りの学生|寮《りょう》などを建てていく上で、どうしても余った土地を埋めるために公園にした……という感じの場所だ。  入口の前には、何台かの車が停《と》まっていた。  警備員《アンチスキル》のものだ。  美琴がそちらへ近づいていこうとすると、黒ずくめの格好をした男が壁になるように立ち塞《ふさ》がった。入口の所も黄色いテープのようなものが何重にも渡してあって、立入禁止の状態にされている。  公園の奥が、チラリと見えた。  中には、今美琴の前に立ち塞がっているのと同じ警備員《アンチスキル》の男|達《たち》が何人か固まっていて、それ以外の『普通の人』は誰《だれ》もいなかった。彼らは児童公園の端の方にあるベンチの近くに集中していて、何かを調べているように見える。  何が起きたか分からなかった。  何が起きたか分からなかったが、それはもう終わってしまったらしかった。 [#改ページ] [#ここから3字下げ]  行間 二 [#ここで字下げ終わり] 「───『神の右席』とは、『原罪』を克服するための集団だそうで」  リトヴィア=ロレンツェッティの声が、処刑《ロンドン》塔の小さな尋問室に響《ひび》く。  話を聞いているステイルとアニェーゼの眉《まゆ》が、わずかに動いた。原罪と言えば、十字教徒にとってこれほど馴染《なじ》み深い言葉も他《ほか》にない。 「アダムとイヴが知恵の実を食べた事によって得た『罪』か。その子供である我々人類|全《すべ》てにも同じ『罪』があるという話だったね」 「そこまでが旧約聖書の話ですが」  リトヴィアは言葉を引き継いで、先を続ける。 「新約聖書では、『神の子』が『罪』の抹消《まっしょう》に一役買っていますので。『神の子』が十字架に架けられて処刑されたのは、全人類に与えられた『罪』を一手に引き受け、たった一人で抹消するためでして。これにより、十字架に祈りを捧げ、ミサで神の血と肉を食し、最後の最後のその瞬間《しゅんかん》まで信仰を貫き通した者は、『最後の審判』で『罪』を洗い流され、『神聖の国』へと導かれる……そういう事になっていますが」  ところが、とリドヴィアは言った。 「……この話には、例外があるので」 「例外?」  羊皮紙《ようひし》に記録をまとめていたアニェーゼが、思わずといった調子で尋ねていた。  ステイルはジロリとアニェーゼを見たが、とりあえず話を先に進める。 「本来、世界全人類に与えられているはずの『罪』に、例外があるという話ですが」 「聖母マリアだな」  それだけ聞いて、ステイルは答えを看破した。  リドヴィアの隣《となり》で椅子《いす》に縛《しば》り付けられているビアージォが、わずかに舌打ちする。  ステイルは構わず続けた。 「『神の子』を産む媒体《ばいたい》として、聖霊《せいれい》と深く接触した聖母からは罪が消えた。『無原罪の宿り』というヤツだな。つまり聖母マリアには『原罪』が存在しない。世界全人類はアダムとイヴの子であり、彼らが『原罪』を背負う以上、その性質は子にも受け継がれているというのに、だ」 「つまり、そこに例外がある訳で」  リドヴィアは簡単に答えた。 「そもそも、新約では『神の子』が背負う以外に『原罪』を洗い流す方法はないからこそ、『神の子』は処刑の道を辿《たど》ったのですから。そこを踏《ふ》まえた上で、聖母から『罪』が消えたという事実を考えれば、答えは自然と浮かび上がってくると思いますが」 「……『神の子』への信仰を貫く以外に『原罪』を打ち消す別の方法が存在すると、そういう訳かい」 「いわゆる裏技的な術式ですので。『神の右席』は、それらの『罪』を可能な限り薄《うす》める事に成功した、という話ですが、完全な形で『罪』を抹消《まっしょう》させたという事ではないそうで」  リドヴィアは椅子《いす》に固定されたまま、それを微塵《みじん》にも感じさせないほど冷静な言葉を放つ。 「ですが、不完全といえど『罪』を消した彼らは、並の人間を凌駕《りょうが》する術的素養を手に入れているようで。通常、『人間』には行使不能と呼ばれる天使や・王の扱う術式すら利用できる……と言われていますから」 「……まぁ、『原罪』の抹消は人間の最終目標だからね。それを可能とすれば、人間としての『質』全体が、天使に近いものへと変化していくだろう。しかし……」 「ええ。『罪』は知恵の実と同義ですので、それを失うという事は、通常の魔術師《まじゅつし》が行使している『人間』用の魔術を使えなくなってしまう……という特性もあるようですが」  ふむ、とステイルはわずかに息を吐《は》いた。 『原罪』の抹消。  確かに、十字教最大宗派ローマ正教の最深部が抱える爆弾としては、極めて妥当とも思える。  十字教では信仰を貫く事で「原罪』を打ち消し、『最後の審判』の後に神の手によって作られた『神聖の国』へ導かれる事が真の幸福とされる。『原罪』を打ち消す秘儀《ひぎ》を日々研究しているというのは、ローマ正教らしいと言えばローマ正教らしい。  ステイルはそこまで考えをまとめて、改めてリドヴィアに質問した。 「となると、『神の右席』の最終的な狙《ねら》いは、自分|達《たち》の体に残った、わずかな『原罪』の完全消去……そんな所なのかな」  もしもそれに成功すれば、『神の右席』は本当の意味で『天使の術式』を自在に行使するようになるだろう。そうなれば、たとえ『聖人』でも彼らを止められなくなってしまう。 「ふふ」 「違うのか」 「ええ。『神の右席』にとって、『罪』の抹消は手段の一つにすぎないので。彼らの最終的な目標は、もっと他《ほか》にあるようですが」 「……『原罪』の抹消だって相当なものだぞ。それがただの手段だと?」  それなら本当の目的は一体何なんだ、と思うステイルに、リドヴィアは含み笑いしたまま、続けてこう言った。 「彼らの目的は、最初から大きく掲げられていますが」 「何だと」 「───『神の右席』。それが、彼らの目指す所ですよ」 [#改丁] [#ここから3字下げ]  第三章 魔術師から遠いもの Power_Instigation.   1  学園都市・第二一二学区。  航空・宇宙産業だけに特化した学区で、学園都市の・王要な空港も全《すべ》てこの第二三学区に集中している。  滑走路やロケットの発射場ばかりが並んでいるこの学区は、他《ほか》とは違って背の高いビルが乱立しているイメージはない。見渡す限り平面のアスファルトが続いていて、その所々に管制塔や試験場などの建物がポツポツと建っている感じだ。 「石と鉄でできた牧場みたいだな……」  電車を降りた上条《かみじょう》は、ホームの向こうに広がる景色を眺めながらそう言った。  大覇星祭《だいはせいさい》の時にオリアナ陛トムソンと戦った場所でもあるが、あの時よりもさらに警備が厳重になっているような印象があった。  両手に抱ていた買い物袋は、駅にあったコインロッカーに入れていく。研究者が多いためか、この街のコインロッカーは完全密閉で、冷蔵や冷凍の機能までオプションで備わっている。  ただし、 「……高っ。一時間でこの値段は普通じゃねえぞ!?」 「にゃー。素直に買い物袋は捨てて、後日改めて安いスーパーで買い直した方が結果的に安上がりっぽいぜい」  土御門《つちみかど》の指摘にも一理あるが、何となく食べ物を粗末にしたくない上条である。荷物をロッカーに入れ、指紋登録を済ませてカギをかけると、とりあえず冷蔵オプションをつけておく。  上条は駅の構内を歩いて出口に向かいながら、土御門に話しかける。 「第二三学区って事は、飛行機に乗るのか」 「ま、国外に出るからな」 「マジでか!? ……っつか、パスポートとかは?」 「ない」  一言で即答され、上条はわずかに黙《だま》り込んだ。  土御門は退屈そうな調子で続ける。 「別に海外旅行に出かける訳じゃないからにゃー。オレ達《たち》がやるのは非公式活動。その存在がバレた時点で国際的非難間違いなしだっつの。今更《いまさら》、出入国スタンプの一つ二つでガタガタ言ってたら始まらないぜい」 「な、なるほど」  色々と言いたい事はあるのだが、土御門《つちみかど》があまりにも正々堂々と言い切ってしまったため、何となく『あれ? むしろそっちの方が良いのか』と首をひねってしまう上条《かみじょう》だった。  駅を出ると、大規模なバスターミナルがある。第二三学区は基本的に徒歩の移動はなく、規定のバスを利用する事になる。  土御門はたくさんあるバスの中から、国際空港行きのものを選んで乗り込んだ。上条もそれに従う。  滑走路だらけで建物のない第二三学区は、とにかく道がまっすぐだ。速度制限もかなり甘いらしく、道路標識を見ると時速一〇〇キロまでオーケーとか書かれている。  窓の外にはアスファルトでできた平原があって、灰色の地平線すら構築されていた。  その地平線の向こうから、入道雲のような白い水蒸気が噴き上がるのが見えた。  地響《じひび》きに似た低い音が、震動《しんどう》となってガラスをビリビリと震《ふる》わせる。 「ロケットか。無事に発射されたみたいだにゃー」  そちらを眺めていた土御門がポツリと言った。  上条は携帯電話を取り出して、テレビ機能を点《つ》けた。ニュースでは様々な角度から陸地を離《はな》れていくロケットの映像を流している。 「学園都市製の四基目の衛星って話だったけど、真実はどうなんだろうな」 「このタイミングでロケットを発射する事によって、色々と憶測《おくそく》を飛ばさせるのも目的の一つなのさ。軍事衛星の打ち上げから大陸間弾道ミサイルの発射実験まで……可能性をあれこれ並べさせれば、それだけ牽制《けんせい》の効果が増すだろうしにゃー」  これが情報戦ってヤツか……と上条は考えていたが、そこで彼の動きがピタリと止まった。 「……あれ。そういやインデックスはどうしよう」  彼女を危険な場所へ連れていくのは反対だが、かと言ってご飯のない部屋に放ったらかしというのもまずそうな気がする。 「舞夏《まいか》がカミやんの部屋に行ってるから大丈夫《だいじょうぶ》だよ。多分いつもの食いしん坊より三割近くツヤツヤしてるはずだにゃー」  その言葉を聞いてホッとする反面、自分の存在意義はもう『ご飯を作ってくれる人』でしかないのか、と上条はやや呆《あき》れる。  そうこうしている内に、バスは国際空港の前へ着いた。  アスファルトへ降りつつ、上条は携帯電話で今の時間を確認した。 「土御門。ところで俺達《おれたち》はこれからどこへ行くんだ」 「フランス」  土御門は適当な調子で答えていく。 「うげっ!? ヨーロッパかよ。また遠いな……。っつーと、往復で何泊くらいになるんだよ。飛行機に乗ってる時間も結構長そうだな。大体一〇時間ぐらいか?」 「いや、一時間ちょっとで着くにゃー」 「は?」  いきなりの謎《なぞ》発言に、上条《かみじょう》は思わず聞き返した。  土御門《つちみかど》は説明するのも億劫《おっくう》そうな調子で、空港のターミナルビルからやや外れた所にある、滑走路の方を指差した。  そこには全長数十メートルクラスの大型旅客機がいくつか並んで停《と》められている。 「ほら、あれに乗るからにゃー」 「……おい、嘘《うそ》だろ」  上条は半分絶句しながら、土御門に確認する。  あの飛行機には、一回だけ乗った事がある。 「あれ、だよな。俺《おれ》の記憶《きおく》が正しければ、あれは確かヴェネツィアから日本に帰ってくる時に利用したヤツだよな───」 「ああ、何だかそうらしいにゃー。オレは『アドリア海の女王』事件にはあんまり関《かか》わってないから詳しくは知らないけど」 「───時速七〇〇〇キロぐらい出るヤツ[#「時速七〇〇〇キロぐらい出るヤツ」に傍点]」  はっはっは、と土御門は笑いながら、 「何事も速い方が良いだろ」 「速すぎなんだよ!! あれ知ってるか、乗ってる問は分厚い鉄板でゆっくりと体を押し潰《つぶ》されてるみたいな感覚がするんだぞ! インデックスなんかせっかく少しずつ科学の方にも心を開きかけてたのに、あのせいでしばらく心のシャッターを閉じっ放しだったんだからな!!」  なお、インデックスはあの状況で無理に機内食を注文し、後ろ方向へ盛大に撒《ま》き散らしたという逸話もある。 「もー。カミやんたら、これから非公式国外活動をするっていうのに、まさか機内食をゆったり食べて映画を観ながらフランスへ向かおうとか思ってたんじゃないだろうにゃー?」 「い、いや、確かにそれはそれで緊迫感《きんぱくかん》がないような気がするけど……え、マジであれ乗るの? かっ上条さんはあんまりオススメできないかな!!」 「大丈夫《だいじょうぶ》大丈夫。マッハ3を超えちまえば素人《しろうと》の感覚的にはもう違いなんて分かんないにゃー」 「どの辺がどう大丈夫なのか説明してみろ!!」  上条はグダグダと文句をつけたが、土御門は『はいはい機内でな』と言うだけで取り合ってくれない。他《ほか》に飛行機がないというのならどうにもならないだろう。土御門の案内で業務用の扉や通路を潜り抜けると、一般的なゲートを使わずに超音速旅客機へ向かった。 [#ここから3字下げ]   2 [#ここで字下げ終わり] 「C文書。───それが今回のカギとなる霊装《れいそう》の名前だにゃー」  広い機内に、土御門《つちみかど》の言葉が響《ひび》く。  超音速旅客機のサイズは、一般的な大型旅客機より一回り大きい。乗務員を除けばそれをたった二人で利用しているのだから、『寂しい』というニュアンスが入るほど広々と感じてしまう。  どうせ二人でしか使わないのだからと、上条《かみじょう》と土御門は一番高級なファーストクラスのど真ん中を陣取っていた。箱詰めのようなエコノミーとは違い、足を伸ばしてもスペースが余るぐらいの余裕があった。  そんな中、土御門は隣《となり》の席にいる上条の方へ顔を向けて、 「正式にはDoCument of Constantine。初期の十字教はローマ帝国から迫害を受けてた訳だが、この十宇教を初めて公認したローマ皇帝が、コンスタンティヌス大帝。で、このコンスタンティヌス大帝がローマ正教のために記したのがC文書って事になるぜい」  その言葉の内容は、見慣れたクラスメイトのものではない。  土御門|元春《もとはる》は、すでに魔術師《まじゅつし》になっていた。 「C文書には、十字教の最大トップはローマ教皇であるという事と、コンスタンティヌス大帝が治めていたヨーロッパ広域の土地権利などは全《すべ》てローマ教皇に与える、ってな事が記されてる。つまりヨーロッパの大半はコンスタンティヌス大帝の持ち物であり、その持ち物はローマ教皇に与えるから、ここに住む連中はみんなローマ正教に従うんだぞ……っていう、何だかローマ正教にとって胡散臭《うさんくさ》いぐらい有利な証明書って事だぜい」  土御門は座席横にあるタッチ式の液晶モニタをいじりながら言った。 「霊装としてのC文書の力は……そうだな、コンパスみたいなもんだって言われてる。約一七〇〇年前コンスタンティヌス大帝が治めた土地の中なら、C文書を使えば『ここはかの皇帝の遺産たる土地だ』という事を示す印が現在も浮かび上がる。大帝の遺産はローマ正教のものって構図が出来上がってるから、『C文書の印が反応した土地・物品は全てローマ正教に開発・使用の決定権が委《ゆだ》ねられる』って事にもなっちまうんだにゃー」  そこまで言って、土御門は言葉を切った。  彼は隣の席に座っている上条の顔を覗《のぞ》き込みながら、 「カミやーん、人の話をちゃんと聞いてんのかにゃー?」 「おごこごこごこごこごこごこごこごぶぶっ!!」  上条は土御門の言葉に答えられない。  時速七〇〇〇キロ。  それが生み出す強大なGで、上条当麻《かみじょうとうま》の内臓は思い切り圧迫され、まともに言葉を出せるような状況ではないのだ。譬《たと》えるなら、バスケットボールをお腹《なか》に押し付けられた挙句、上から思い切り踏み潰されているような感じだろうか。  むしろ、この状況下でケロッとしている土御門《つちみかど》の方が異常なのだが、 「まあいいや。とにかく話を続けるぜい」 「うげごっ!!」  土御門は返事なのか呻《うめ》きなのか良く分からない上条の言葉を聞きつつ、 「このC文書だが、さっきも言った通り、その真偽はものすごく胡散臭《うさんくさ》い。実際、一五世紀の学者は嘘《うそ》だって公言してるにゃー。そして、実際問題、C文書は嘘だった。C文書の真の効力───霊装としての力は、その程度のものじゃなかったんだよ[#「その程度のものじゃなかったんだよ」に傍点]」 「ぎぎぎぎぐぐっ!!」 「C文書の真の効果はもっとスケールがデカいんだ。そいつは『ローマ教皇の発言が全《すべ》て「正しい情報」になる』というものだった」  土御門は静かに言う。  彼は唇を滑《なめ》らかに動かし、 「例えば、ローマ教皇が『〇〇教は治安を乱す人類の敵だ』と宣言すれば、その瞬間《しゅんかん》からそれが絶対に正しい事になってしまう。『祈りを捧《ささ》げれば焼けた鉄板に手をつけても火傷《やけど》しない』と宣言すれば、何の根拠もなくたって、本当にそうなんだと信じられてしまう」 「おおおおおぇぇぇぇっ!!」 「ちょっとカミやん、こっちの目を見てほしいにゃー?」  びくんびくん、と上条の上半身が大きく揺れる。  それでも、聞かれた上条は何とか口を開こうとした。 「その、C文書ってのは、それを使って、教皇が話した事が、全部、正しく、なるって事、だよな」  会話についていけるという事は、あれだけの状況でも一応話を聞いていたらしい。  上条本人としては、黙《だま》っているより会話していた方が気分は楽になるかも、と思っての苦肉の策だ。 「じゃあ、つまり、何でも願いが叶《かな》う、錬金術《れんきんじゅつ》の、『黄金練成《アルス=マグナ》』みたいな、ものか……おえっ!!」 「いや、そうじゃないにゃー」  土御門は鼻歌でも歌いそうなぐらい気軽な表情でそう言った。 「C文書の効果は、あくまでも『正しいと人に信じさせる』効果でしかない。どんなにくだらないものであっても、『教皇様の言う事だから間違いない」って思わせるだけのものだにゃー。だから、実際に物理法則がねじ曲がっちまうとか、そういう話じゃないぜい」  彼は椅子《いす》の肘掛《ひじか》けの辺りにある備え付けの小さなモニタをいじりながら、 「しかも、この霊装《れいそう》は『ローマ正教にとって「正しい」』と信じさせるものだ。だから、『ローマ正教にとっての「正しさ」なんてどうでも良い』と思ってる人間や、『たとえ「間違って」いても俺《おれ》は構わない』と思ってる連中までは操れない。まあ、良くも悪くも『ローマ正教のための霊装』でしかないんだにゃー」 「いいい、言ってる事を…-正しいと、思わせる霊装……? で、でもそれって、うぶ」 「ハハッ。何となく卑怯《ひきょう》に聞こえるかにゃー。でも、権力者の発言=絶対の法律だった時代じゃ、威厳を保つための小細工[#「威厳を保つための小細工」に傍点]なんかいくらでもやったにゃー。何しろ権力者の威厳っていうのは、絶対の法律に対する信用度でもあったんだからにゃー。それが揺らぐと国全体が危険な状況になる。……日本だって江戸時代にゃ切り捨て御免って制度があったろ。庶民は武士の悪口を言っただけで一刀両断。こんな分かりやすい言論統制が他《ほか》にあるかにゃー?」 「じ、じやじやじゃじゃ、C文書が作られたのも……」 「怖かったんだろうさ。自分達が作ってきた世界がぐらぐら揺れるのが。……実際、ローマ正教は何度も『危機』に陥《おちい》ってる。十字教じゃ神は絶対であり、神はどんな危機からも人間を助けてくれるはずの存在だ。だが、実際にはペストの流行でヨーロッパの人口はかなり減ったし、十字軍の遠征にはことごとく失敗したし、オスマントルコの大勢力はいつヨーロッパに攻め込んでくるかも分からなかった」  土御門《つちみかど》はあまり感情のない声で言う。  しかしその顔には、同情のような色があった。 「……『神は絶対』なんて言葉はさ、何度も何度も揺らいだんだ。それでもローマ正教としては、『神は絶対』を貫かなくちゃいけなかった。だから必要だったんだよ。あまりにも大きな危機の前に、人々の心が離《はな》れちまわないように。C文書っていう霊装が」  いわば、理想と現実の隙間《すきま》を埋めるための霊装、といった所か。  強制的に『信じさせる』事で、人々の希望を守るための道具。  それはとても醜《みにく》く思えるし、同時に優しい意図もあったように思える。 (つ、つ、つまり、今のローマ正教はそのC文書っていうのを使って)  ゆっくりと深呼吸しながら、上条《かみじょう》は考える。 (学園都市は悪い連中だ、っていう情報を『正しい』ものだと信じさせてるって訳か。……無理にそんな情報を刷り込んだから、歪《ゆが》んだ形で『デモ』として表に現れてる、と)  上条はGの効果で真っ青になった唇を動かし、疑問を話す。 「でっ、ででででも、そんな凄《すさ》まじい、霊装があるなら、何で、今まで使って、こなかったんだ……」 「C文書の効果は絶大だぜい。一度『正しい』と設定した事柄は、同じC文書を使っても取り消すのは難しい、だから下手に『正しい』という設定を乱立させる訳にもいかないんだにゃー」  土御門はすらすらと答えていく。 「それに、C文書は簡単に扱えるものじゃない。さっきも言ったろ、あれは『ローマ教皇の発言を「正しい」と思わせる』ものだってにゃー。誰《だれ》でも扱えるものじゃないし、場所だって特定されてる。本来ならバチカンの中心部に据え置かないと使えないはずだぜい。そこから地脈を通じて、一気に世界中へ命令を飛ばすって訳だ」 「え、ぅえ? だっ、だけど、俺達《おれたち》は、これからその、C文書って、いうのを、妨害しに行く、んだろ」 「そうだな」 「なっ、何故《なぜ》、フランス? C文書は、バチカンじゃ、ないと、使えない、んじゃ……」 「ん? そうそう、それはだな」 「あ、あと、C文書って、使ったら、もう解除、できないんだろ? だったら、今から俺達が動いて、この流れを、止められるのか?」 「ええとだにゃー。それを説明するにはどっから話せば良いんだっけ……?」  土御門《つちみかど》が言いかけた時、機内のスピーカーからポーンと柔らかい電子音が聞こえてきた。  さらに続けて、まるで合成音声のように整えられた女性のアナウンスが流れる。外国語なのだが、単純に英語とも思えない。土御門はそれを聞くと、やや渋い顔になり、 「……っと、そろそろ時間がなくなってきたみたいだにゃー。カミやん、本当に大丈夫《だいじょうぶ》か。辛《つら》かったら深呼吸してみろ。ほら吸ってー」 「すー」 「吐いてー」 「はー」 「もう一度吸ってー」 「すー」 「また吐いてー」 「はー」  とやっている内に、何やら上条《かみじょう》は本当に気分が良くなってきた……気がした。  しかし上条の顔を覗《のぞ》き込む土御門の顔はますます曇《くも》っていき、 「だーこりゃしんどそうだにゃー。こりゃ一度吐いちまった方が楽になるんじゃねーの? ほらほらカミやん、案内するからこっち来いこっち。シートベルトの着用ボタンとか外しちゃって。フライトアテンダントとかいねーから気にする必要はないにゃー」  土御門は何の気なしに席から立つと、上条ものろのろとそれに従う。自分の意志で動いているというより、ほとんど朦朧《もうろう》となった頭が勝手に動いてしまっているような感じだった。  土御門は通路を歩き、扉を開け、さらに細い通路を歩き、頭がぶつかりそうなほど低いハッチを潜《くぐ》り抜け、金属が剥《む》き出しで何やら周囲から轟々《ごうごう》と音のする所まで歩いて行った。  というか、どこだここは?  呆然《ぼうぜん》としている上条《かみじょう》はリュックサックのようなものを押し付けてくる。 「はいこれ着けてこれ」 「??? つちみかど? あの、吐《は》いた方が楽になるってのは?」 「大丈夫《だいじょうぶ》大丈夫。すぐ開くから。ほら早く着けて」  言いながら、土御門はすでにリュックサックのベルトを体に巻いている。両肩の他《ほか》にお腹《なか》や胸にもベルトを固定させる方式の、何やらやたらゴツい仕組みだ。  何だか良く分からないが、上条も見よう見まねでベルトの固定器具を留めていく。 「よし、カミやんもオッケーだにゃー」  土御門は壁についている缶詰の蓋《ふた》ぐらい大きなボタンに掌《てのひら》を叩《たた》きつけると、 「じゃ、思う存分吐いちゃおうぜーいー!!」  ごうん、という何やら妙な音が聞こえてきた。  何らかの太いポンプが動いているのだ、と上条が気づいた直後、  ガバッ、と。  唐突に機体の壁が大きく開き、その向こうに背空が見えた。  はい? と上条は思わず目が点になった。  そして、目を点にしている場合じゃないほどの烈風が機内を吹き荒れ、あっという間に全《すべ》てが機体の外へ放り出されそうになる。 「つっ、つつつつつつつ土御門ォーッ!?」  上条は慌てて機内の壁の突起に両手をかけたが、何秒|保《も》つかも分からない。  轟々《ごうごう》と風が流れる中、土御門はニヤニヤと笑いながら、 「さあカミやん、準備は終わったから思う存分吐いちゃうにゃー」 「吐いちゃうにゃーじゃねえよどうなってんだ!! おっ、お前。さては荷物|搬入用《はんにゅうよう》の後部ハッチを思いっきり開放しやがったのかーっ?」 「だってー、馬鹿《ばか》正直にフランスの空港に着陸しちゃったらローマ正教のクソ野郎どもにバレちゃうにゃー、この飛行機はロンドン行きですよ? オレ達《たち》はここで途中下車」 「アホかテメェは!! 機体の速度とか考えろ! 時速七〇〇〇キロオーバーでハッチなんか開放したら、この飛行機が中からバラバラになっちまうぞ!!」 「悪いもう開き済み」 「死!!」 「馬鹿《ばか》だにゃーカミやん。ホントにそんな事やったらこんなのんびりしてられないぜい」  ……まさかと思うが、この緊急《きんきゅう》降下用に飛行機の速度も落としてあるのだろうか。それなら確かに、今の上条はGの影響《えいきょう》を受けていないのだから気分の悪さも取れているはずなのだが……。 「おっ、お前……じゃあさっきの深呼吸とか何だったんだッ!! 何の意味もねえじゃねえかー!?」 「ほらほらカミやん。いつまでも悪あがきしてないでさっさと壁から手を放しなさい」 「感謝してたんだぞ。俺《おれ》は気を遣ってくれた土御門《つちみかど》には本当に感謝してたんだッ!!それなのにお前ってヤツはーっ!!」 「黙《だま》れもう行くぞ」  壁の突起を掴《つか》んでいる上条《かみじょう》の手が土御門の足にガッと蹴飛《けと》ばされ、ツンツン頭の少年が全ての支えを失う。  機内を吹きすさぶ強烈な風はあっという間に上条当麻《かみじょうとうま》の体を拾い上げ、そのままノーバウンドで荷物|搬入用《はんにゅうよう》ハッチを潜《くぐ》り抜け、大空へと飛ばしていく。  現地時問はお昼すぎ。  清々《すがすが》しいほど青い空の下、男子高校生の絶叫が炸裂《さくれつ》する。 「うぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」  三六〇度で青空展開中。  手足をバタバタと振り回すと空気抵抗が変な風に働いたのか、彼の体が訳の分からない方向に回転していく。 (どっ、どうなってんだ。ほんの数時間前まで吹寄《ふきよせ》とフォークボール対決とかやってたのに、何で俺《おれ》はフランス上空からポイ捨てされてんだーっ!?)  ぐるぐる回りすぎて何が何やらなの中、土御門《つちみかど》がいかにもスカイスポーツ満喫しています的な笑顔で飛行機から飛び出してくるのが見える。 (殺してやる……。あのクソ野郎、地上に着いたらグチャグチャになるまで殴《なぐ》りまくってやる!!)  ……というか、そもそもどうやって安全に着地するんだろう、と上条《かみじょう》の顔が真っ青になった直後、ドバン!! という音と共に背中のリュックサックが爆発した。  その中から巨大なパラシュートが開いていく。どうやら一定の高度に達すると自動的に作動するように作られていたらしい。  ただし、上条にとっては完壁《かんぺき》に不意打ちだったので、 「ごぇぇッ!? くっ、首が、絞ま───ッ」  文句を最後まで言う事もできなかった。  ぶらーん……と手足をだらしなく下げながら、極めてナチュラルな体勢で少年の体が降下していく。  ちなみに彼は、風に流されたパラシュートが本来の降下予定地点を大きく外れ、一〇〇メートル以上の川幅を誇るローヌ川のど真ん中に落ちる事をまだ知らない。 [#ここから3字下げ]   3 [#ここで字下げ終わり]  がぼっ、という水っぽい音が聞こえた。  それが自分の口から漏《も》れる音だというのに気づいて、上条は面食らう。  パラシュートが風に流されたせいで川の真ん中に落ちてしまったのだ。上条の足が底に着く様子はない。元々、泳ぎは得意でもなければ苦手でもない程度だが、衣服を着たまま水に入った事、そしてパラシュートの大きな布地が体に絡《から》まってきた事もあって、面白いぐらい体は水に浮かばなかった。  辺りに土御門が降下してくるような気配はない。彼ともはぐれてしまったのかもしれないが、水の中に沈んでしまった今の上条としてはそれどころではない。  実際の水深は分からない。  案外それほど深くはない可能性もあるが、混乱している上条にとっては十分|溺死《できし》できるレベルだった。とにかく水というものが恐怖しか与えてこない。  自分が考えているよりも二倍も三倍も遅く、上条は両手を使って水をかこうとする。  その腕に震《ふる》えが走る。  筋肉の疲労、水に体温を奪われた事による震え、そして一向に水面へ顔を出せない恐怖……。  それらがグチャグチャに混ざり合って、見えないナニかに拘束されていくような錯覚《さっかく》を感じる。  やばい、と思った。  口の中に溜《た》めていた空気が、内側からこじ開けられていくようにこぼれていく。  頭上を見上げると、太陽の光を浴びた水面がキラキラと輝《かがや》いている。  距離《きょり》の感覚を鈍らせるような光の乱舞。  そう言えば、イタリアのキオッジアでも氷の船から振り落とされた事があったな、と上条《かみじょう》は水面を見上げながら妙な走馬灯に襲《おそ》われる。  ───その水面が、大量の気泡と共にいきなり破られた。 (……ッ!!)  上条が驚《おどろ》く前に、白い空気のカーテンの中から細い手が紳びてくる。  誰《だれ》かが飛び込んできたのだ、と思った時には、その白い手は上条の腕を掴《つか》んでいた。  ぐいっと。  強い力で上方向へ引きずられていく。  妙に力が抜けた状態で、まるでロープで釣り上げられるように上条の体が水面へ向かう。  上条の顔が水を割って空気に触れるまで、一〇秒とかからなかった。  バシャ!! という水の音が耳に届く。  あれだけ恋しかったはずの酸素だが、上手《うま》く吸い込めない。  喉《のど》か肺を動かす筋肉がおかしくなっている。 「だ、大丈夫《だいじょうぶ》ですか!?」  すぐ近くで、少女の声が聞こえた。  錘《おもり》のようなパラシュートは、未《いま》だに上条の体を下へ下へと引きずり続けている。その二人分の重量を支えながら、少女はなおも声を張り上げる。 「岸に向かいます。そのまま力を抜いていてください!!」  川岸……というか、底の浅い河原の方まで近づくと、上条はそこで尻餅《しりもち》をついた。衣服はもとより、パラシュートの布地が水を吸ったせいで、やたらと体が重たく感じられる。しかも、水中でもがいている内にパラシュートの紐《ひも》が絡《から》まってしまい、ただの足枷《あしかせ》になっていた。 「こっ、こうやるん……でしょうか?」  少女が横から細い手を伸ばしてくる。  バチン、という大きな音と共に、ようやく固定具から解放されていく。  絡みつくようなパラシュートから逃れると、上条は水溜《みずた》まり程度の水深の河原から、ようやくゆっくりと立ち上がった。  頭上を見上げると陽は高いので今はお昼すぎぐらいなのだろうが、上条|達《たち》の他《ほか》に人はいなかった。もしかするとデモや暴動を恐れて外出を控えているのかもしれない。  辺りを見回す。  すぐ近くに、アーチ状の石橋があった。ただし、その石橋は半壊《はんかい》していて、川の途中でブツリと崩れている。  もしかすると、少女はあそこから川に飛び込んできたのかもしれない。  そう思った上条《かみじょう》は、自分を助けてくれた少女の方へ顔を向けた。  ここはフランスのはずだが、そこにいるのは日本人の少女だ。  歳《とし》は上条と同い年ぐらいだろう。  肩まである黒い髪に、二重まぶたが特徴的な顔立ち・服装はピンク色のタンクトップに、膝上《ひざうえ》ぐらいまでの長さの白系のパンツ。全体的にほっそりとしたシルエットの女の子だった。 「水とか飲んでいませんか……?」  気遣わしげにこちらを覗《のぞ》き込んでくる少女の顔は、見覚えのあるものだった。  確か、 「げほっ、天草式《あまくさしき》の……五和《いつわ》、だっけ?」 「あ、はい。ご無沙汰《ぶさた》しています」  ぺこりと可愛《かわい》らしく頭を下げる五和。  しかし彼女は他《ほか》の天草式のメンバーと同様、現在はロンドンで生活しているはずである。特に何の用もなくフランスにいる訳がない。  何で五和がここにいるんだろう、と上条は少し疑問に思ったが、 (いや、この場合は理由なんて一つしかないか[#「理由なんて一つしかないか」に傍点]……) 「なぁ五和。もしかして、土御門《つちみかど》に呼ばれてここに来たのか?」 「はぁ。ツチミカド、さんですか?」  予想に反して、五和はキョトンとした顔で首を傾《かし》げた。  げほっ、ありゃ、外したか? と上条は上条で意外そうな顔になり、 「ほら、あれだよ。世界中のデモとか抗議行動に、ローマ正教のC文書ってのが関《かか》わってるとかっていう話で……」 「どっ、どうしてその事を知ってるんですか?」  五和は驚《おどろ》いて口元に手を当てながらそう叫んだ。 「た、確かに私|達《たち》はC文書について調査を行っていますけど。私達天草式がようやく探り当てた糸ロをそんな簡単に!? 流石《さすが》は元女教皇《プリエステス》様を拳《こぶし》一つ。て殴《なぐ》り倒した御方《おかた》ですっ!!」  何やら瞳《ひとみ》をキラキラさせている五利だが、記憶喪失《きおくそうしつ》の上条にはそんな思い出など存在しない。  というか、知らない間に自分は神裂《かんざき》に一体何をしでかしたんだろう? とややビビるばかりである。 「あの、その、ええと。というか、そもそもあなたは何でいきなりパラシュートで降りてきたんですか。日本の学校は大丈夫《だいじょうぶ》なんですか?」  そうこうしている内にさらに常識的なクエスチョンをぶつけられた。  上条《かみじょう》は微妙に泥臭い川の水に濡《ぬ》れた髪をガリガリ掻きながら、 「こっちはこっちで土御門《つちみかど》と一緒《いっしょ》にC文書を止めるためにここまでやってきたんだけど……。土御門の動向とか、五和《いつわ》の方にはイギリス清教から連絡行ってなかったのか」 「私|達《たち》はそのイギリス清教からの要請を受けて、フランス国内の地脈や地形の魔術的《まじゅつてき》価値などの調査を行っていたんですが」  ふうん、と適当に聞き流しかけて、上条は瞬《まばた》きした。 「私『達』?」  ええ、と五和は小さく頷《うなず》いて、 「天草式十字凄教《あまくさしきじゅうじせいきょう》の戦闘《せんとう》メンバー五二名。総員でフランス国内の主要都市を洗っています。私はこのアビニョンを担当しているんですけど……そうしたら、何だか良く分からない内にあなたが空から降って来て……」 「……そうか。ここ、アビニョンっていうのか」  上条の口から何とも間の抜けた声が出た。  土御門に連れて行かれるまま連れて行かれ、飛行機から落とされるまま落とされた上条は、自分が現在どこにいるのかも分かっていなかったのだ。そう考えると、顔見知りの日本人と遭遇できた事はかなりのラッキーだったかもしれない。  ともあれ、土御門が最初からアビニョンへ来るつもりなら、ローマ正教はここでC文書を使っている可能性が高い。  つまりは敵地。  上条はその真ん中へ降りてきたという訳だ。 「なぁ五和。そう言えば、土御門の話だとC文書ってバチカンじゃなきゃ使えないって話じゃなかったっけ」 「は、はい」 「だとしたら、何でイタリアじゃなくてフランスを調べてるんだ? あいつにも尋ねたんだけど、答えを聞く前に飛行機から叩《たた》き落とされたんだよな」  話の後半部分は得体《えたい》の知れないジョークだと思われたのか、五和の表情は何とも微妙な苦笑いだった。  と、そこでハッと何かを思い出した五和は、 「あっ、あの、そのお話の前に荷物を取って来ても良いですか?」 「荷物?」 「橋の上に置いてきちゃったままなので。い、一応、盗《と》られる心配もありますので」  橋というのは、やはりすぐ近くにある、半分ぐらいで崩れてしまっているアーチ状の石橋の事だろう。  どうやら五和《いつわ》は本当にあそこから川へ飛び込んで来てくれたらしい。 「そっか。今さらだけどありがとう。お前が助けてくれなかったら本当にやばかった」 「いっ、いえいえ! 私はそんな!!」  ブンブン!! とものすごい速度で首を横に振って顔の前で手をパタパタ振る五和。指先から細かい水しぶきが飛んだ。  それを見た上条《かみじょう》はついでに質問してみる。 「そうそう、五和。その荷物の中にお前の着替えって入ってるのか?」 「え? ま、まあ、天草式《あまくさしき》は隠密《おんみつ》行動に特化した宗派ですから」  いきなりな質問にややキョトンとしながらも、そう説明する五和の表情はどこか誇らしげだ。 「滞在用の荷物のほとんどはホテルに置いていますけど、尾行や逃走のために、手荷物の中にもそういったものを一式用意しています。今の所、使う機会はありませんけどね」 「そっか。それは良かった」 「?」  キョトンとした顔の五和は、まだ上条の真意に気づいていないようだ。  しかし彼としても、直接口に出すのは憚《はばか》られる。  なので、上条は五和から青空へ視線を移動しながら、人差し指で指し示す事にした。 「……、」  五和は上条の指先の向きに目をやって、その行き先に視線をやる、  自分の胸元。  川の水に濡《ぬ》れたため、色々と透けた挙げ句に布地が張り付いて全体のシルエットまで浮かび上がってしまっている、ピンク色のタンクトップを。 [#ここから3字下げ]   4 [#ここで字下げ終わり]  ところで五和という少女はとても平和的かつ良心的な人格をしているらしい。  上条に真正面から指摘を受けても、彼女は平手打ちをする、頭に噛《か》みつく、一〇億ボルトの高圧電流で黒焦《くろこ》げにしようとする、などなどといったエキセントリックな行動には出ず、顔を真っ赤にしながらも苦笑いを浮かべ、『あ、あはは。お見苦しいものを見せてしまいましたね。あははははは』とか何とか言いながら、両手を交差して胸元を隠しつつ、着替えの入った荷物のある石橋の方へ小走りで向かってしまった。  顔は笑っているが微妙に目が泣きそうなのがとても良識ある大人な感じである。 「うーん……」  何となく上条の方が超気まずい。  せめてキャーとか叫んでくれれば良かったものを、とちょっと遠い目をしてしまう。  それから一〇分ぐらい経つと、一体どこで着替えてきたのか、さっきまでとは違う衣装をまとった五和《いつわ》が帰ってきた。もうどこも濡《ぬ》れていないが、川の水の匂《にお》いが気になるのか、うっすらと香水をかけているのが分かる。 「お、お待たせしました」  そう言った五和の肩には、大きめのバッグがあった。  彼女の服装は、アイスクリームのような薄《うす》い緑色のブラウスに、ふくらはぎが見える程度の長さの、焦《こ》げ茶色のパンツ。ブラウスの生地は太陽にかざすと透けてしまいそうなほど薄い。  五和はそれを、ボタンで留めるのではなく、おへその上辺りで布地を強引に縛《しば》っていた。  裸の上半身の上から、直接。  下に何にも着ていないためか、胸の谷間が妙に強調されているような気がする。  上条《かみじょう》はギョッとした顔つきで、 「……、五和さん?」 「しっ、仕方がないんですっ! 元々、タンクトップの上から羽織る事で服装の印象を変えるためのアイテムだったんですから! 何も言わないでください何も言わないでください!!」  確かに羽織る用なのか、よくよく見てみると五和のブラウスにはボタンがない。前で縛る以外に留める方法がないのだ。  彼女自身、今ある手持ちだけでは無理がある事は承知していたのだろう。上条の何とも言えない視線を受けて身を縮ませてしまった。  しかし元はと言えば五和は上条を助けるために川へ飛び込んだのだ。  ここはフォローをせねばなるまい、と上条は足りない頭を総動員させて、 「でも、神裂《かんざき》だってそんな感じだからオッケーじゃね?」 「女教皇様《プリエステス》はこんなふしだらな格好はしていませんっ!!」  全身|全霊《ぜんれい》で否定してから、『こんなふしだらな格好』をしている五和はその事実を再確認して、顔を全部真っ赤にしてしまった。  だがまぁ、神裂のように堂々としていれば『夜通し遊んで踊っていそうな子』で通りそうだ。  五和が恥ずかしがって縮こまったりモジモジしたりするから、何だか妙に目立ってしまうのだ。 「その、ツチミカドさんの事は良く分かりませんけど、あなたもC文書を回収しに来たのなら、その方と合流するまで行動を共にしませんか」  もう自分の格好の事は早く意識から追い出したいのか、五和は少々強引に『仕事』の話を持ち出してきた。  上条としても、フランス語はさっぱりだし、パスポートも持っていないから一人ぼっちになったら日本に帰る手段もないし、五和の提案は願ったり叶《かな》ったりだったりする。 「ま、まぁ、こっちとしてはありがたいけど」 「じゃあ、とりあえずどこか座れる場所へ行きましょうか。色々とお話しする事もありますし」  五和《いつわ》にそう提案されたが、上条は自分の格好を見下ろしつつ、 「思いっきりずぶ濡《ぬ》れなんだけど……。せめて泥ぐらいは拭《ぬぐ》っておきたいかな」  その何気ない言葉に、五和の背筋がピンと伸びた。  彼女は慌てた様子で自分のバッグを漁《あさ》りながら、 「そっ、それならですね。わ、わたっ、私おしぼり持ってますから」  五和が言い終わる前に、上条の頭にバサッとタオルが被《かぶ》せられた。  びっくりして上条が振り返ると、大きな犬と一緒《いっしょ》に河原を散歩していた白人のおじいさんが、振り向きもしないで、『返さなくて良いよ』とでも言いたげに面倒臭そうに片手を振っている。  上条は頭に乗っかったタオルを手で取りながら、 「……はぁ。親切な人っているんだなあ。フランス人って何であんな挙動がいちいち格好良いんだろう。ん? 五和、なに固まってんだ?」 『い、いえ、なんでもないです……』と肩を落としている五和。上条は首を働げながらも、顔や服についた汚れをタオルで拭っていく。 「そういや、ここもデモとか暴動とか起きてんだよな。検問とかってあるのか? 俺《おれ》、パスポートとか持ってないんだけど」 「検問はいくつかありましたけど、せいぜい手荷物検査程度ですし、いちいちパスポートの提示を求められるほどではなかったと思いますよ。魔術《まじゅつ》を使《つか》って手荷物検査もごまかせますし」  五和はそう言うと、『タオルという手もあるのか。い、いや、おしぼりだって……』と小さな声でブツブツ呟《つぶや》きながら、バッグの肩紐を再調節した。  アビニョン。  フランス南部に位置する街だ。その中心部となる旧市街は全長四キロ程度の城壁に囲まれていて、限られた土地の中にたくさんの建物を詰め込んであった。最盛期にはヨーロッパ全体の文化に大きな影響《えいきょう》を与えたらしい。その事もあってか、現在でもフランス屈指の観光名所として機能している。 「……ふうん。で、勝前はそのアビニョンでC文書について調べていた、と。それは分かったんだけどさ、五和」  そういう説明を受けた上条は、五和と一緒に巨大な石の城壁に備え付けられたアーチ状の城門をくぐり抜け、壁に囲まれたアビニョンの旧市街に入る。  広場らしき所に出ると、オープンカフェのようなものが見えた。一道路の脇《わき》に置いてあるお店の看板は、フランス語(っぽいもの、としか上条には分からない)と英語が並べて表記されている。観光客向けというか、初めて来た人のために色々|配慮《はいりょ》されているらしい。  五和《いつわ》は上条《かみじょう》れるように、細い道へ入っていく。穴場でもあるんだろうかと思っていた上条だったが、 「とりあえず座れる場所へ行こうって話だったと思うんだけど」 「は、はい」 「何故《なぜ》そこでドローリコーヒー? いや、元々海外の企業なんだからフランスにあってもおかしくはないんだけど、思いっきり日本のチェーン店と同じだぞ。なんていうか、もっと、こう……あれだよ。老夫婦が趣味《しゅみ》で始めました的な隠れた名店とかってないのか?」 「そ、そういうお店もあるにはあるんです、けど」  五和は申し訳なさそうに言う。 「ええと、その手のお店は地元の人|達《たち》ばかりが通う事が多くて……私達みたいな、よそ者の日本人が入ると、とても目立ってしまうんです。日本の観光客がたくさん出入りしている、こういうチェーン店の方が安全というか、何というか……」  むむ、と上条は唸《うな》った。  五和の意見にちょっと賛同しかけたが、そこでふと疑問に感じる。 「……待った五和。それを言ったら、俺《おれ》なんか結構汚れてるぞ」  さっき河原でタオルをもらった上条だったが、それだけで汚れが全部落ちる訳がない。水分はかなりなくなったが、服についた泥の方はどうにもならない。 「こんな状態でお店に入ったら、目立つどころかそのまま追い出されちまうんじゃ……」 「それなら、大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」  五和は自然な調子でそう答えた。 「今なら大丈夫なんです[#「今なら大丈夫なんです」に傍点]」  彼女の言葉の意味は、実際にお店に入るとすぐに分かった。  店内の内装は日本にあるものと全く変わらなかった。  道路に面した壁は全《すべ》てガラス張りになっていて、そこには一人用の椅子《いす》と長テーブルがズラリと並んでいた。フロアの中央部は四人掛けのボックス席になっていて、店の奥が注文受け付け用のカウンターとなっている。上条はフランス語が読めないが、所々に煙草《タバコ》の禁止マークが描かれたプラカードが張り付けてある所を見ると、どうやら全席禁煙らしい。違いと言えば、店内にいる客ぐらいか。当然ながらここはフランスなので日本人は見当たらない。  パラシュートで降下した辺りには人がいなかったが、この店内はそこそこ混んでいる。デモや暴動を恐れているとはいえ、生活していくためにはずっと閉じこもっている訳にはいかない。  ようは、必要最低限の所だけ行き来しているため、人の流れが一極集中しているのだろう。  それともう一つ。  客の大半が、髪や服が乱れていたり、泥がついていたり、手足に包帯を巻いていた。屈強な大人から小さな子供まで、最低でも顔に青あざがあり、無傷である人間の方が珍しいぐらいだ。 「デモや抗議行動、か……」  上条《かみじょう》思わずポツリ呟《つぶや》いてしまった。  今の所、学園都市とローマ正教は全面対立の意志は見せているものの、本格的な軍事行動にまでは発展していない。しかし、それでもやはり『変化』は着実に世界を蝕《むしば》み始めているのだ。  誰《だれ》にとっても望まれていない、忌《い》まわしい『変化』が。 「早く、何とかしなくちゃいけませんよね」  五和《いつわ》が小さな声でそう言った。 「……そうだな。そのための作戦会議だ」  上条も短く答えた。  のんびりと物を食べている場合ではないのだが、何も頼《たの》まないで居座ると目立ってしまうと五和から指摘された。まぁ、上条としても店員さんに睨《にら》まれながら世間話を続けるのは何となく居心地が悪いので、とりあえずカウンターへ向かってみる。  当然ながら、レジの前に立っている店員のお姉さんはフランス人だ。  さて、と上条は思う。 「い、五和さん。フランスに着いたらフランス語で話さなければ駄目《だめ》だろうか?」 「はい?」 「例えばフランス人だけど英語もできますよ的な、そんな展開は待ってないかなという話です」 「ええと、EU圏内なら大抵英語は通じると思いますよ。海に囲まれている日本と違って、こちらは国境の感覚が希薄《きはく》ですから。ほら、あっちにいるお客さんはドイツ人ですし、向こうの方はイタリア人のようですし。いろんな国の人と話す必要がありますから、チェーン店の客商売の場合はフランス語しかできない、という事はないと思いますけど」  そっ、そうかーっ!!と上条は俄然《がぜん》やる気になった。  携帯電話の学習アプリ『かんたん英語トレーニング』の成果を見せる時がやってきたのだ。  実はあの携帯アプリは練習レベル4で行き詰まって挫折《ざせつ》したのだが、それを気にしても仕方がない。上条はガチガチの足でカウンターへ行くと、店員が『ご注文は?』と尋ねる前に、 「コーヒーアンドサンドウィッチ、プリーズ!!」  正直かなり危ういカタカナ語だったが、お姉さんはコクンと頷《うなず》いた。 (つ、通じたーっ!!)  ……ここで喜んでしまう辺りで実用的な英語力などたかが知れている感じなのだが、そこへ店員のお姉さんは『じゃあ料金は七ユーロ』みたいなニュアンスの外国語を放ってきた。  上条はそこでうろたえた。  円じゃ駄目なのだ。 「どっ、どうしよう……ッ!!」  びしゃーん、と雷に打たれたような顔をする上条《かみじょう》が横からユーロ紙幣を出した。後でちゃんとお金は返そう、でも一ユーロって何円だっけ? と上条が首を傾《かし》げていると、五和は店員に向かって、 「え、ええと、私はエスプレッソと黒豚のサンドイッチ、後はヘルシー野菜スティックでお願いします」  再びコクンと頷《うなず》いてオーダーを受け付けるフランス人の店員さんを見て、上条は思わず叫んでいた。 「ええー日本語!? 日本語で大丈夫《だいじょうぶ》だったの!?」  よくよく店員さんを観察してみると、制服の肩の辺りに国旗を模した小さなバッジがいっぱいくっついている。多分、あれは『この国の言葉なら大丈夫ですよ』サインだ。  そうなると上条の英語力はますます怪しくなるばかりで、この店員さんはカタカナ日本語を読み取ってオーダーを受け付けていただけの可能性も出てくる。  かなり意気消沈な感じで商品の乗ったトレイを受け取ると、上条は先にテーブルを確保しておく。少し遅れて五和がやってきた。  五和は最初にテーブルの上に自分のトレイを置いて、次に肩に引っかけていたバッグを自分の足元へ置いた。  その途端、バッグの中からゴトリという重たい金属音が聞こえてくる。 「……、?」  上条は何となく気になってそちらを見る。  すると、何やら五和は顔を赤くして、両手を顔の前でパタパタと振った。 「きっ、気にしないでください」 「いや、でも」  言いかけた上条に、五和はほとんど唇を動かさないで言った。 「(……そのう、武器が入っているんです)」 「は?」 「(……柄《つか》の部分を五つぐらいに分けて。使用峙には接続部《アタッチメント》で固定して一本の槍《やり》にするようにしています。『関節』を用意すると槍の強度が落ちるのは承知しているんですけど、こうでもしないと携帯できないんですよね……)」  言われてみれば、五和はキオッジアでもデカい槍を振り回していた気がする。 「それより、その、ツチミカドさんとは連絡がついたんですか?」 「いや」  上条はズボンから携帯電話を取り出して、 「……降下中に離《はな》れ離《ばな》れになってそれっきり。どうも連絡がつかないんだよな。一応、通話はできる状態だから、土御門《つちみかど》の方が電源を切ってるか、地上のアンテナから離れたトコにいるかって感じなんだろうけど……まぁ、あいつなら何が起きても大丈夫《だいじょうぶ》な気がするけど」  試しにもう一度かけてみるが、圏外なのかコールする気配もない。  しかし川に落ちても大丈夫とは相変わらず頑丈なケータイだな、と思いながら上条《かみじょう》は電話をポケットに戻した。  とりあえずサンドイッチでも食べながら五和《いつわ》と作戦会議だ、と考える上条だったが、その時、トレイの上に紙ナプキンが載っていない事に気づく。 「うわ、どうしよう、食べる前に手を拭《ふ》いておきたかったんだけど」  その愚痴《ぐち》を五和に言うと、何故《なぜ》か彼女は両目を輝《かがや》かせた。 「そっ、そそそそそれならですね、私が───」  五和が顔を赤くして足元に置いたバッグを漁《あさ》り始めたが、唐突に上条|達《たち》のテーブルの横を通り過ぎた女の店員さんがソーリーのフランス語的な言葉を短く告げると、とてもぞんざいな手つきで紙ナプキンをドンと置いた。  上条の正面では、何故か自前のおしぼりを取り出しかけた五和が、ガーンという感じで動きを止めている。  ようやくやってきた紙ナプキンで適当に掌《てのひら》を拭きながら、上条は本題に入る。 「そういやさっきの続きだけど、五和はアビニョンの事を調べてたって話だったじゃん……あれ? 五和、どうかしたのか?」 「い、いえ……な、なんでもないです……」  そう言う五和は、夏場の窓際《まどぎわ》に置きっ放しの観葉植物みたいに元気がなくなっている。  気を取り直して、上条はもう一度言った。 「確か、前からアビニョンについて色々調べてたんだろ。何でバチカンじゃなくてフランスの方なんだ。なんか怪しいトコとか見つかったのか?」 「え、ええ」  五和はコクンと頷《うなず》いて、 「本当ならもう少し情報を集めてから、フランス各地を当たっている天草式《あまくさしき》の仲間へ連絡するつもりだったんですけど」 「って言う事は、やっぱり目星はついてるって訳か」  上条が確認を取ると、五和も否定しなかった。 「教皇庁宮殿、という建物はご存知ですか」 「?」 「このアビニョンにある中では、ローマ正教最大の施設です。というより、アビニョンという街はこの施設を中心に発展していったという方が正しいんでしょうけど」 「教皇庁、ねぇ……」  上条は呟《つぶや》いた。  教皇というのは、やっぱりあの教皇だろうか? 「ん? でも、教皇の宮殿って、バチカンにあるものなんじゃないのか? いかにも最重要っぽい名前なんだけど」  ええとですね、と五和《いつわ》は言う。  ちょっと言いづらそうな調子だった。 「アビニョンという街には、少し複雑な事情がありまして」 「複雑な事情?」 「一二世紀末に、ローマ正教の教皇とフランス国王の間でいさかいがあったんです。そして、そのいさかいで最終的に勝利したのは、フランス側でした。フランス国王は、当時のローマ教皇に色々と指示を出す権利を得たようで……その中の一つに、『本拠地から出てフランスにやってこい』というものがあったんです」  アビニョン捕囚《ほしゅう》と言うんですよ、と五利は付け加えた。 「その本拠地って言うと、やっぱりバチカンか?」 「い、いえ。当時はローマ教皇領と呼ばれていたはずですけど  とにかく、フランス側としては、ローマ教皇を手中に収める事で、ローマ正教が持っていた様々な特権や恩恵を自分|達《たち》の都合の良いように利用したかったらしい。 「その幽閉場所に選ばれたのが、このアビニョン。ですから、幽閉用の宮殿には『教皇庁宮殿』という名がつけられたという事なんです」 「幽閉、ね」 「このアビニョン捕囚は、六八年間にわたって数代のローマ教皇を縛《しば》り続けました。当然ですけど、その間はこの街で教皇としての職務を果たさなければならない訳で」  五和は野菜スティックを一口かじって、 「ですけど、教皇としてのお仕事は、本拠地であるローマ教皇領でないとできないものもありました。枢機卿《すうききょう》の任命式や様々な公会議などが代表的でしょうか。ローマ教皇領という場所、ローマ教皇領にある建物、ローマ教皇領にある各種|霊装《れいそう》……こうした物と同じ条件をアビニョンで再現する事はできません」  それはローマ教皇領を丸ごともう一つ作るのと同じですからね、と五和は言う。 「ですから、彼らローマ正教は『小細工』をする必要があったんです」 「小細工?」 「アビニョンの街にローマ教皇領と同じ設備を作る事はできません。ですからアビニョンとの間に術的なパイプラインを築いて、ローマ教皇領の設備を遠隔操作できるようにしたんです」 「……大型サーバーにアクセス用のコンピュータを接続するようなものか」 「アビニョン捕囚が終わって、ローマ教皇がフランスから本拠地へ戻る際に、こうしたパイプラインは何重にもわたって切断されたはずなんですけど……。周辺の土地の脈動のパターンから考えても、アビニョンでC文書を使えそうな施設といったらアレぐらいしかありませんし、もしかするとローマ正教側は切断したパイプラインを再び繋《つな》ぎ合わせたのかもしれません」  ふうん、と上条《かみじょう》は頷《うなず》いた。  今までの話を少し考え、そして言う。 「……その、教皇庁宮殿の中は調べたのか?」 「い、いえ」  五和《いつわ》は身を縮ませて首を横に振った。 「私はあくまでも調査係ですから……。本来なら必要な情報を集めた上で、教皇代理に連絡を取って、大人数の部隊を招いてから一気に踏み込む予定だったんですけど」  一応、教皇代理の建宮斎字《たてみやさいじ》からは天草式《あまくさしき》に伝わる『特別な霊装《れいそう》』を受け取っているらしいが、やはりC文書という世界中を巻き込む事態に関するとなると、一人で動くのは得策ではないと五和は思っているらしい。  ……そう考えると、土御門《つちみかど》や上条は随分《ずいぶん》とイレギュラーな存在と言えるだろう。 「土御門もここを目指してたとしたら、別の情報筋からでも『アビニョンが怪しい』って推測は立ってたみたいだな。となると、やっぱり五和が睨《にら》んだ通り、ローマ正教の連中は教皇庁宮殿の中でC文書を使ってる可能性が高いって事か」  しかし、と上条は思う。 「C文書ってのは、元々ローマ正教の持ち物なんだろ?」 「え、ええ」 「じゃあ、何でローマ教皇領……今はバチカンか? とにかくそこで使わないんだ。本拠地の外に持ち出す理由って、特にないよな。アビニョンは『バチカンの施設を遠隔操作できる』だけで、『アビニョンでなければ発動できない魔術《まじゅつ》がある』って訳じゃないんだろうし」 「それについては、色々な仮説がありますけど……」  五和は少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。 「C文書の使用の承認を得るには莫大《ばくだい》な時間がかかるんじゃないでしょうか。ローマ正教上層部である一四一人の枢機卿《すうききょう》の意見もまとめないといけませんし。バチカンではローマ教皇が大きな権力を持っているんですけど、それでも彼一人の独断ではC文書を使えないと思います。だからこそ、今まで無暗《むやみ》に使われなかったんだと思いますし」  ローマ正教上層部にも派閥《はばつ》争いがあって、そういった事にC文書を使われるのを避《さ》けるためでしょうね、と五和は言った。 「ところが、アビニョン経由の操作はイレギュラーで、枢機卿の意見をまとめる必要はない……という情報もあるんです。その代わり、バチカンで直接発動する訳ではないので、C文書の発動は一瞬《いっしゅん》で終わる訳ではなく、アビニョンでの『準備』があるようですけど。有《あ》り体《てい》に言えば、今ならまだC文書の行使を止め、世界中の混乱を収められるかもしれないんです」 「どっちみち、あの教皇庁宮殿を調べない事にはどうにもならないか……」 「も、もう少しで天草式《あまくさしき》を動かすための情報が集まりますから。おそらく、数日後には教皇庁宮殿への突入が始まると思います」  科学と魔術《まじゅつ》の対立……という構図の『戦争』だが、五和達《いつわたち》はローマ正教を止めるために戦ってくれるらしい。  おそらくイギリス側は、ローマ正教が魔術サイドの舵取《かじと》りをするのが気に食わないのだろう。かと言って、真正面から対立して波風を立てるのも好ましくない。彼女は『天草式』という言葉は使っても『イギリス清教』という言葉は使わなかった。つまり傘下にいる天草式を使ってC文書の妨害に入り、仮に天草式が失敗した場合は『小宗派が暴走しただけで、イギリス清教全体の意向とは関係がない』と言い張るつもりなのだ。 「……、」  上条《かみじょう》は土御門《つちみかど》と別れた状態である。  このまま一人で怪しいと目される教皇庁宮殿に向かって状況をかき乱すより、五和と一緒《いっしょ》に動いて天草式の突入作戦に協力した方が確実な気がする。  それなら、上条としては五和と共に、突入するための情報を集めた方が効率的だ。 「五和、俺《おれ》になんか手伝える事はないか?」 「え?」 「数日後には突入するって話だったけど、少しでも早い方が良いだろ」 「は、はい。それなら───」  五和は戸惑いながらも、上条の問いかけに答えようとした。  しかし、彼女の答えを聞く事はなかった。  ドバン!! という轟音《ごうおん》と共に。  いきなり道路に面したウィンドウが一斉に砕け散ったからだ。  石を投げたのではない。バットや鉄パイプで殴《なぐ》ったのとも違う。  手だ。  何十何百もの人の手が一斉にガラスを押し、その圧力によってガラスが内側に砕け散ったのだ。店内にいくつもの悲嶋が聞こえたが、それすらも押し潰《つぶ》すように大量の人の渦が店内へ殺到した。まるでゾンビ映画の恐怖シーンのようだ。  明らかに異常な事態だが、上条はすぐに原因を知った。 「暴動か!?」 「こっ、こっちです!!」  足元の荷物を手に取った五和は、もう片方の手で上条の腕を掴《つか》むと急いで走り出した。行き先は正面の出口ではなく、非常口だ。その間にも何百人という大入数が一斉に店内へ入り、あっという問に満員電車のような身動きの取れない空間へ変貌《へんぼう》していく。 『日本人だ!』 『学園都市か!?』 『潰《つぶ》せ。ためらうな。あれは敵だ!!』  上条《かみじょう》にはフランス語は分からないが、感情のニュアンスだけが異様に生々しく伝わってくる。  いくつもの手が上条|達《たち》の背中を追いかける。その手に追いつかれる直前で、上条は鉄のドアを開け放ち、そこから転がるように外へ出た。  上条は後ろを振り返る。  いくつもの悲嶋が重なっていた。店内には小さな子供や女性もいた。しかし上条がそちらへ戻る前に、五和《いつわ》が足を使って蹴飛《けと》ばすように非常口のドアを閉めた。 「五和!!」 「あの動きなら、人は死にません。何せ数が多すぎますから。暴動を起こしてる側は自分で自分の動きを封じてるんです。将棋倒しにでもならない限りは重傷者も出ないと思います」 「そういう問題じゃない!!せめて子供だけでもッ!!」 「あれぐらいなら!!」  五和は上条の言葉を遮《さえぎ》るように叫んだ。 「……あれぐらいなら、世界中で起きています。それに私達があの人の波に戻った所で、何ができるというんですか。あの災いの根っこを一秒でも早く叩《たた》き切るために、私達はこんな所まで来たんでしょう……?」 「……、くそ「 「ローマ正教が使ってるC文書さえどうにかすれば、この騒《さわ》ぎは収まるんです。暴動の波に巻き込まれたら身動きが取れなくなります。そうなったら、騒ぎを止める人がいなくなってしまうんです」 「───ちくしょう!!」 (ローマ正教は好き勝手に暴動を誘発《ゆうはつ》するし、学園都市はそいつを利用するために少しも止めようとしない)  吐《は》き捨てた上条は、ギリギリと奥歯を噛《か》む。 (結局、苦しんでるのはその板挟みになってる人達だけじゃねえか! こんな流れを無視していられるか。ここで止めてやる。こんな馬鹿《ばか》げた事は、一刻も早く終わらせてやる!!)  上条と五和は左右に高い壁がそびえる裏通りを走る。  どこかで野太い男の叫び声が聞こえた。ガラスの割れる音が耳にこびりつく。甲高い泣き声は誰《だれ》のものだろうか。ガスかガソリンにでも引火したらしく、爆発音まで響《ひび》いてきた。  暴動の大雑把《おおざっぱ》な標的は分からない。  アビニョンにある日本企業のチェーン店でも狙《ねら》っているのか、日本人観光客の多いホテルを襲《おそ》いたいのか。いずれにしても、当初の目的などすぐに忘れ去られ、『ただ暴れていたいだけの人間』が街に溢《あふ》れ返るだろう。 「五和《いつわ》、どこまで逃げる気なんだ?」 「とりあえず、人混みに巻き込まれない所ならどこでも良いんですけど……」  言いかけた五和の言葉が、いきなり途切れた。  狭い道の向こうから、新たな暴動の人混みが見えてきたからだ。 (……なんてタイミングの良い……)  そう思いかけて、上条《かみじょう》はギクリと肩を震《ふる》わせた。 「なあ。五和はここでしばらく調べ物をしてたんだよな。その間、今みたいに暴動に巻き込まれた事ってあったか?」 「え? い、いえ。天草式《あまくさしき》は環境に溶け込む事を得意とする宗派ですから。普段《ふだん》は暴動の気配みたいなものを掴《つか》んで、それが起きる前に離《はな》れるようにしていたんですけど……」 「……、やっぱり」  五和の言葉に、上条は嫌な確信を得た。 「向こうのタイミングが良すぎるんだ」 「それって……」 「C文書を操っている『敵』が俺達《おれたち》と同じくアビニョンに潜《ひそ》んでいるとしたら、俺がパラシュートで降りてくる所を見ていたかもしれない。明確に俺の事を捉《とら》えたんじゃなくても、学園都市製の超音速旅客機が減速して何かを投下したぐらいなら察知できたはずだ。C文書を使ってる連中がそれを警戒してんなら、こういう反応があるのも頷《うなず》ける」 「まさか」 「この暴動は……連中からの『迎撃《げいげき》』って訳だ!!」  上条が叫ぶのと、道を塞《ふさ》ぐ人混みがこちらへ近づいてくるのは同時だった。  教皇庁宮殿のあるアビニョン旧市街は、この古い城壁に囲まれた狭い都市らしい。元々限りのあるスペースの中へ次々と建物を建てていったせいか、自動車が通り過ぎるのも難しいような小道が多い。そんな状況で一〇メートル以上もの高さの建物がそびえ立っているため、異様な圧迫感ばかりを与えてくる。  その細い道のあちこちが、人の波によって塞がれていた。  暴動に参加している連中は、自分で自分の体を傷つけているようにも見えた。  上条は少し考え、それから覚悟を決めた。  目の前の人の山の流れに逆らって突破しない限り、教皇庁宮殿へは辿《たど》り着けない。そして、どのみちそこへ行かなければ問題は解決しない。時間が長引けば長引くだけ、みんなが傷ついていく。 「行くぞ、五和《いつわ》」 「え……?」 「土御門《つちみかど》からの連絡を待っている時間はなさそうだ。天草式《あまくさしき》だって今すぐやってくるって訳じゃねえんだろ? だったらここを潜《くぐ》り抜けて、教皇庁宮殿に向かう。『敵』が俺達《おれたち》の事を知った以上、連中だって長居はしないかもしれない」  そして、 「最悪、連中はバチカンに帰ってもC文書を扱える。C文書を本拠地に持ち帰られたら厄介《やっかい》な事になるってぐらいは、素人《しろうと》の俺にでも分かる。あれはここでぶっ壊《こわ》しておかなくちゃいけない物なんだ!!」  五和はわずかに逡巡《しゅんじゅん》したが、やがて上条《かみじょう》に向かって頷《うなず》いた。  フランス中に散らばった天草式の仲間をのんびりと集めている時間はないと判断したのだろう。  そうこうしている間にも、細い道の向こうから何百人という暴徒達が近づいてくる。  満員電車の車内のようにも見えるそれは、人を素材にした分厚い壁だ。 「……突っ込む時は中腰になってください」  暴徒達を見ながら、五和は静かに言った。 「集団の中から顔が出ていると、ターゲットにされる恐れがあります。逆に言えば、人の波の中に体を隠してしまえば、狙《ねら》われる可能性は低くなります。この暴動が仮に敵からの迎撃《げいげき》であったとしても、その精度はそれほどではないみたいですからね」 「よし」  異様な緊張《きんちょう》を感じながら、上条《かみじょう》は言う。 「走るぞ」  その言葉と同時に、上条と五和《いつわ》は自ら暴徒|達《たち》の中へと突き進んで行った。  まるで壁のような密度となった暴徒達の中へ、自分の体をねじ入れるように進んでいく。人が多すぎて、走る事ができない。歩くのがやっとだったし、それも最初の数メートルが限界だった。  叫び声と共に、いきなり頭を誰《だれ》かに殴《なぐ》られた。  前へ進もうとした所で、太い指にシャツを掴《つか》まれる。  そこから先は、上条もがむしゃらだった。掴んでくる腕に噛《か》みつき、邪魔《じゃま》をする壁を肩で押しのけ、それでもしがみつく輩《やから》をそのまま引きずるように歩を進める。爪《つめ》が突き刺さって脇腹《わきばら》から血が滲《にじ》み、興奮《こうふん》した男達の体臭が鼻についた。耳元で爆発する絶叫に頭を揺さぶられるし、四方八方から押し潰《つぶ》すような人の圧力が加わってきて、徐々に意識が削られていく。 (くそ……)  少しずつ、上条の足が鈍っていく。 (くそ……ッ!!)  気持ちの悪い塊に呑《の》み込まれそうになった所で、不意に人の壁が途切れた。  人の吐息《といき》の混じっていない、新鮮な酸素が一気に流れてくる。 「だ、大丈夫《だいじょうぶ》ですか!?」  五和の声が間近で聞こえた。  彼女のこめかみにも、一筋の血が垂れている。五和の方も、この波の中を無傷で進む事はできなかったらしい。彼女のバッグの中には槍《やり》があるという話だったが、それを振り回す気にはなれなかったのだろう。  上条は肩で息をしながら、人混みから離《はな》れるように走る。心なしか、足元はふらふらとおぼつかない感じがした。注意しないと細い道の石壁に肩がぶつかりそうだ。 「……い、五和。教皇庁宮殿は?」 「まだ先です。向こうの方に屋根が見えているのが宮殿ですから……つ、次はあれを越えなくちゃいけません」  五和が指差した方向を、上条はゆっくりと見た。  そちらには、たった今潜り抜けたものとは比べ物にならないほど大規模な暴動の渦があった。 [#ここから3字下げ]   5 [#ここで字下げ終わり]  教皇庁宮殿までの道のりは険しすぎた。  上条達《かみじょうたち》のいるアビニョン旧市街は全長四キロ程度の城壁に囲まれた小さな街であるにも拘《かかわ》らず、一向に日的地に辿《たど》り着けない。周辺の旧市街はとにかく道が狭いのだ。幅はたった三メートル前後しかないし、その道の左右にはまるで城壁のような石造りの集合住宅が聳《そび》え立っている。高さ「五メートル以上の壁に阻《はば》まれているため迂回《うかい》するのは難しく……正面を突破しようとすれば、何百人、何千人という暴徒の群れが待っている。狭い場所に多くの人が集まると、それは分厚い壁になる。満員電車の車両を端から端まで歩いていくようなものだ。  このままでは教皇庁宮殿まで辿り着けない。  C文書とやらを破壊《はかい》する前に、こちらがやられてしまいそうだった。 「またです……」  五和《いつわ》は前方に広がっている新たな暴動を睨《にら》みながら、息を呑《の》む。  上条にはフランス語は分からないが、向こうにいる男達の何人かが血走った目でこちらを指差しながら何かを叫んでいる。日本人だ、学園都市だ、そんな事を言っているのかもしれない。  彼らが動く前に、五和は上条の腕を掴《つか》んで走り出した。 「駄目、ですね。こっちに来てください、このままじゃ手詰まりになります!」 「おい、教皇庁宮殿はどうするんだよ?」  五和が来た道を引き返し始めたので、上条は思わず叫んでいた。  先ほどこちらを睨んでいた男達も上条達を追いかけようとしたみたいだが、すぐに彼らは暴動の渦の中に巻き込まれてしまった。  五和も五和でこの状況に歯噛《はが》みしながら、 「……あそこの暴動は絶対数を超えています。走った程度じゃ潜り抜けられません!」 「他《ほか》のルートを使う気か。でも」  上条が言いかけた時、今度は引き返した道の方から別の暴動に参加している若者達が顔を出してきた。ただでさえ細い道が、完壁《かんぺき》に人の壁で埋め尽くされている。  無理もない。上条や五和は、つい先ほどその暴動を抜けてきたばかりなのだから。 「こっちも!!」  珍しく五和は苛立《いらだ》った声を上げ、上条の手を引いて壁となっている集合住宅の方へと走った。  石造り……というより、ほとんど崖《がけ》に見える建物の中へ、上条達は飛び込んでいく。  分厚い木でできた扉を、背中で押すように閉める。  その向こうから、ガンガンという暴力的な音や衝撃《しょうげき》が跳ね返ってきた。ただ、それは誰《だれ》かが扉を破ろうとしているのではなく、道いっぱいに広がった暴徒|達《たち》の肩や腕が擦《こす》れているような感じだ。  上条《かみじょう》は扉に背中を預けたまま、ずるずると床に腰を下ろした。 「……こんなのどうするんだよ。これじゃ教皇庁宮殿なんて行けないぞ」 「確かに、この暴動の中を進んでいくのは難しそうですね……」  五和《いつわ》は弱々しい口調で言った。  彼女は肩にかけていたバッグを床に下ろすと、その中から七〇センチぐらいの棒を数本取り出した。ガスの元栓のようなソケットをカチリとはめると、それは一本の長い棒になる。五和は最後にその先端へ、鋼《はがね》の刃を取り付けた。  西洋風の十字|槍《やり》の出来上がりだ。  確か名前は、海軍用船上槍《フリウリスピア》だったと思う。 (はぁー……。なんつーか、隠密《おんみつ》行動ってのも色々考えてんだなー……、ッ!?)  考え事をしている最中に上条の喉《のど》が詰まりかける。  ブラウスの前だけを適当に縛《しば》った五和の谷間が見えかけたせいだ。その服は色々反則だろうと上条は思ったのだが、当の本人は全く気づいた様子もなく、 「どうしましょう。暴動は避《さ》ける事を前提に行動していたので、実際にそこへ巻き込まれた時の策や術式は持っていないんです」 「ま、まあな。暴動を治めるためには教皇庁宮殿へ行く必要があって、教皇庁宮殿へ行くためには暴動を治める必要がある……か。くそ、堂々巡りだな」  おまけに敵が危機感を抱けば、こうして足止めされている問に連中はC文書を持ってバチカンへ帰ってしまうかもしれない。そこでC文書を使われたら奪取は困難だ。後は永遠にこの作為的な暴動が続いてしまう危険もある。  迅速《じんそく》な行動をしなくてはいけないのに、身動きの取れないジレンマ。  無駄《むだ》に消費される一秒一秒が、一〇倍にも一〇〇倍にも感じられる。  その時だった。  唐突に、上条のポケットにあった携帯電話が着儒音を鳴らした。  土御門《つちみかど》からだ。 『カミやん、そっちは大丈夫《だいじょうぶ》か!?』 「お前は今どこにいるんだよ!? つか、そっちも暴動に巻き込まれてんのか? 怪我《けが》とかしてねぇだろうな!」 『今は教皇庁宮殿って建物に向かってる最中。このフランスでC文書を扱える場所っつったらあそこぐらいしかないだろうしにゃー』 「教皇庁宮殿……? お前もやっぱりそこを狙《ねら》ってたのか」 『?』  土御門《つちみかど》が何か言う前に、上条《かみじょう》はさらに言う。 「って事は、俺《おれ》のパラシュートが変な所に落ちたんじゃなくて、元々アビニョンに用があったってのは間違いないんだな」 『そりゃそうだが……カミやん、どうして教皇庁宮殿の事を知ってる? 確か説明する前に飛行機から飛び降りたはずなんだがにゃー』 「こっちは天草式《あまくさしき》の五和《いつわ》ってヤツと合流して、似たような事を話してたんだ。ただ、暴動が酷《ひど》くなって教皇庁宮殿に近づけない。お前の方はどうなんだ」 『こっちも似たようなモンだにゃー。ま、色々あ.た。アビニョンの細い道と人の波を使った暴動ってのは、相性が良すぎる。真っ向から突っ込むだけじゃ本命には近づけもしない』  それだけで、お互いは大体の事情を掴《つか》んでいた。  やはり、土御門も暴動に巻き込まれ、どこかに退避《たいひ》しているのだろう。 「おい土御門。とりあえず合流したいんだけど、落ち合えるような場所って知ってるか」 『街のあちこちで暴動が起きてるんだぜい。長時間、一ヶ所に留《とど》まってるような事は避《さ》けたいな』 「じゃあどうする。暴動が収まるのを待つか?」 『自然に起きている騒ぎならそれでも良いんだろうが、こいつはC文書によって意図的に引き起こされたモンだ。ローマ正教の連中にとって都合の良いように騒《さわ》ぎはいくらでも引き伸ばせる以上、ただ待つだけで事態が好転する事はまずありえないにゃー』 「じゃあ.他《ほか》に手はあるのか!?」 『ある』  土御門はあっさりと答えた。 『逆転の発想ってヤツだな。教皇庁宮殿へ行けないなら、教皇庁宮殿に行かずに問題を解決できる方法を使えば良い』 「……?」 『その天草式のヤツから少しは話を聞かなかったか? って事で問題です。アビニョンの教皇庁宮殿が重要視されている理由は何でしょう?』  土御門に言われて、上条は少しだけ考えた。 「それは、まあ、バチカンにある施設を遠隔操作できるからなんだろ。だからC文書もここで扱う事ができるって」 『そうだ。それなら、アビニョンとローマ教皇領……今のバチカンを結んでいる術的なパイプラインを切断しちまえば良い。それで連中はC文書を扱えなくなるはずだ。教皇庁宮殿まで行くのは難しくても、その途中にあるパイプラインまでなら何とか近づけるかもな』  あ、と上条は思わず声を出していた。  確かに、言われてみればその通りだが……。 「でも、C文書が使えなくなれば、教皇庁宮殿でそれを扱ってる連中も気づくはずだぞ。そうなったら逃げられちまうかもしれない」 『そうだな。それは否定できない。だからスケジュールが全《すべ》てだ。パイプラインを遮断《しゃだん》してから教皇庁宮殿に向かうまでが勝負になる』  土御門《つちみかど》の意見は、それなりに筋が通っているようにも思える。  彼は旅客機に乗る前からこういう情報を集めていたのだろうか。それとも、上条《かみじょう》と離《はな》れ離《ばな》れになった後、アビニョンで暴徒に迫われながらも調査を続けていたのか。  しかし、素人《しろうと》の上条にも問題を見つけられた。 「教皇庁宮殿にC文書があるとして、誰がそれを使っているか分からないだろ[#「誰がそれを使っているか分からないだろ」に傍点]。連中は、その気になれば暴動に紛れて隠れちまう事もできる。そうなったら、俺達《おれたち》だけで見つけるのは難しいぞ」 『……、』  土御門はわずかに黙《だま》り込んだ。  彼はポツリと言う。 『ま、そこは何とかする[#「そこは何とかする」に傍点]。とにかくまずはC文書を止めるのが先だ』  土御門の言葉に、上条は嫌な感覚を得ていた。 (……まさか、また魔術《まじゅつ》を使って敵の居場所を突き止めるとか、そういう話じゃないだろうな)  土御門|元春《もとはる》は、魔術を使うと体が傷ついていくハンデを負っている。  だが、彼は必要ならそのハンデを無視して魔術を使う事を、上条は知っている。『大覇星祭《だいはせいさい》』では血まみれになりながら、学園都市に紛れたオリアナ=トムソンを追い詰めていた。  上条の不安を知ってか知らずか、土御門は明るい声でこう言った。 『ようやく活路が見えてきたな、カミやん』 [#ここから3字下げ]   6 [#ここで字下げ終わり]  集合住宅の中を通り抜け、上条と五和《いつわ》は裏口から外へ出る。 「五和の仲間……天草式《あまくさしき》の連中ってまだ来れないのか?」 「す、すみません。元々、こんな展開になるとは考えていませんでしたから。先程|緊急《きんきゅう》連絡はしておいたのですが、明日の朝に合流できるかどうか。日本国内なら移動術式『縮図巡礼』の『渦』が使えたんですけど……」  こちらの道には暴徒達はおらず、教皇庁宮殿まで何事もなく向かえそうな気もしてくる。  しかし、いつまた大量の人混みに道を塞《ふさ》がれてしまうか分からない状況では、安易に長距離《ちょうきょり》を歩こうとしない方が良いだろう。やはりここは土御門の示した通り、手近にあるパイプラインを目指すべきだ。 「こ、こっちです」  槍《やり》を手にした五和が前に立って上条を導いていく。  今までよりもやけに左右の『壁』が高いな……と思ったら、この辺りは崖《がけ》の上にさらに石造りの建物を建てているらしい。要塞《ようさい》のような建造物は黒ずんだ汚れまで防壁の一種のように思えて、パッと見た感じでは何のための建物なのか分からなかった。住宅街も店舗も教会も、何もかもが砦《とりで》のような外観をしているのだ。 「その、ツチミカドさんに指定された場所は分かりますけど……本当に、そこに教皇庁宮殿からバチカンへ繋《つな》がるパイプラインがあるんですか?」 「俺《おれ》に聞かれてもな……」  上条《かみじょう》は呟《つぶや》きながら、携帯電話に目をやる。  土御門《つちみかど》の声は気軽なものだ。 『ま、地脈の読み方は文明によって大分違うモンだが、これに関しちゃほぼ間違いないぜい』  その『ポイント』は上条|達《たち》の居場所のすぐ近くにあるらしい。土御門の位置からは結構|離《はな》れているため、上条と五和《いつわ》でパイプラインを断つ事になったのだ。 「その、パイプラインってのはどんな形をしてるものなんだ? 地上に飛び出してる……訳はねぇよな……」 『脈ってのは土の中にある力の流れみたいなもんだ。流れてる力の種類や方向はバラバラ。ある宗派にとっては重要な力であっても、別の宗派にとっては意味がない、なんてのもザラだ。だからこそ、文明によって読み方が違う、なんていう話になるんだけど』  上条が首を傾《かし》げていると、スピーカーから漏《も》れる音を聞き取っていたのか、五和が横から『食材の使い方みたいなものですよ』ど言った。  洋食では高級食材になる黒豚などは、(最近の創作料理はともかく)和食では見向きもしない。そういう風に、『たくさんある力の中から、必要だと感じた所だけを引っ張ってくる』のが地脈の使い方の基本らしい。  五和の口調はすらすらと滑らかだ。天草式《あまくさしき》は地脈を使った術式が得意なんだろうか、と上条は適当に考える。 『ま、この大地に貴賎《きせん》はないからな、勝手に価値を付けて使ってるのはオレ達人間の方だって訳だにゃー』 「じゃあ、やっぱり素人《しろうと》が見ただけじゃ分からないんだな」 『ってな訳で、ローマ正教にとって重要な地脈が、このアビニョンとバチカンを結んでいる。厳密には人の手で地形を崩して生み出された歪《いびつ》なラインだけどな』  土御門はサラリと言う。 『こいつは風水の概念《がいねん》だが、地脈ってのは結構簡単に揺らぐ』 「はぁ。でも地脈って、良く分かんないけど大地に直接刻まれてるラインなんだろ?」 『だから、その大地そのものを削っちまえば地脈も歪《ゆが》む。風水的に良い土地悪い土地を読む基準ってのは、ここに山があるとか、この方角に川が流れてるとかって感じなんだけど……今時、川を埋め立てたり山を削ったりなんてのは珍しくもないだろ』  土地を利用する魔術師《まじゅつし》は、そういう大事なポイントを開発されないように努力する必要があるんですよ、と五和《いつわ》は付け加えた。  ……色々大変なんだな、と上条《かみじょう》はやや呆《あき》れる。 「でもって、逆に魔術的な計算を行い地形を変えたりもする。厳密には一地域にある独立した多数の脈から『どんな味の脈を強く出すか』っつー再選択に近い。ただ下手するとバランスが崩れて大惨事《だいさんじ》になったりするから、国家単位の大プロジェクトになるんだけどにゃー』 「それが、ローマ正教のパイプライン……」 『さっきも言った通り、大地には無数の方向に様々な種類の力の脈が流れてる。だからまあ、何のヒントもない状態で必要な一本のラインを見つけるのは極めて難しい』  土御門《つちみかど》はスラスラと言う。 『だが、教皇庁宮殿とバチカンを結ぶ線……っつー検索条件が分かれば話は別。目的地を指定したカーナビみたいにスラスラ見つかるにゃー。ともあれ、カミやん達《たち》はそのパイプラインをさっさと壊《こわ》してくれると助かるぜい。ええと、イツワっつったっけか?』 「はっ、はい!!」 『確認しておくけど、パイプラインの破壊《はかい》方法・術式は分かるかにゃー』 「え、ええと。天草式《あまくさしき》の流儀《りゅうぎ》に則《のっと》ったものでしたら。神道・仏教・十字教なら、スタンダードなものはほぼ網羅《ももうら》していると思います……」 『それだけできれば十分だ。そっちでパイプラインを発見した場合はお前がやれ』  ? と上条は二人のやり取りを聞きながら首を傾《かし》げ、 「ってか、俺《おれ》の右手を使えば地脈だろうがパイプラインだろうが一発じゃねえの?」  彼には|幻想殺し《イマジンブレイカー》という力がある。  魔術だろうが超能力だろうが、異能の力に関するものなら一撃《いちげき》で粉砕する力だ。  しかし、上条の意見に土御門は難色を示した。 『カミやんの|幻想殺し《イマジンブレイカー》で、本当に地脈が消せるのかは分からないな』 「え?」  その言葉に、上条はキョトンとした顔になった。 「でも、地脈って……ええと、魔術的なもの……なんだよな。だったら」 『それなんだが』  土御門は遮《さえぎ》るように言う。 『どうも、カミやんの右手は正体が掴《つか》み切れてないんだよな。魔術でも超能力でも何でも打ち消す……とは言うが、例えば……そうだな。人間の「生命力」だってオカルト的な力だが、カミやんは握手をしただけで人を殺せるって訳ではないだろう?』 「それは……まあ……」 『何だか、妙な「例外」がある気がする。そして多分、地脈はその「例外」に引っ掛かるな。カミやんが地面に触れただけで、地球が粉々になるって事は考えにくいし』  しかしそれでいて、ミーシャ=クロイツェフは上条《かみじょう》の右手に触れようともしなかったし、風斬氷華《かざきりひょうか》は無意識の内に上条の右手を恐れていた。 「……、」  上条は思わず黙《だま》り込んで、自分の右手に目をやってしまった。 (───例外、だって?)  そこにはどんな仕組みがあるのか。  仕組みがある事に、何らかの意味があるのか。  冷静になってみれば、上条は『幻想殺し《イマジンブレイカー》』という自分の力について、詳しい事を知らない。記憶《きおく》を失っているせいでもあるし……もしかしたら、記憶を失っていなくても分からなかったかもしれない。少なくとも記憶を失った後に残った「知識』の中には、答えどころかヒントもなかった。  ともあれ、今はとにかくパイプラインを切断するのが先決だ。  気を取り直して、上条は前を見る。 [#ここから3字下げ]   7 [#ここで字下げ終わり]  上条と五和《いつわ》がやってきたのは、アビニョンにある小さな博物館だった。 『博物館』という独立した大きな建物があるのではない。他《ほか》の集合住宅や店舗と同じく、道ので左右に聳《そび》える砦《とりで》のような建物の一角を利用しているだけだ。元々城壁で囲まれた小さなアビニョンの旧市街では、そんなスペースがないのだろうし、統一感のある景観を整える意図もあるのだろう。  正面の入口にはフランス語の看板があったが、木のドアの手前には金属格子のシャッターが下りていた、おそらくノブに引っかけたプレートには『閉館』という単語が並んでいるはずだ。  今は平日の昼間なのだが、 「暴動を恐れて早めに店じまいしたみたいですね」  五和は建物を見上げながらそう言った。  上条は頑丈なシャッターに目をやりながら、 「でも、土御門《つちみかど》が言うには、この博物館の中を見えないパイプラインが通ってるんだろ? どうやって入るんだ。天草式《あまくさしき》って鍵開《かぎあ》けのスキルとか───」 「えいや」  上条《かみじょう》の言葉は、可愛《かわい》らしい掛け声に遮《さえぎ》れれた。  直後、五和《いつわ》は槍《やり》の先端をシャッターと地面の隙間《すきま》に差し込むと、てこの原理っぼく槍を動かした。シャッターを動かす歯車そのものが、ベキリという音と共に砕けて壊《こわ》れる。  防犯ベルが甲高い音を鳴らすのも構わず、五和はさらにシャッターを押し上げ、その奥にあった木のドアに関しても同じようにてこの原理でこじ開けた。  五和はサラリとした顔で中へ入っていく。 「さ、早く早く」 「ええと……五和さん?」  上条はギョッとした顔で小柄な少女の顔を眺める。  あなたはフツーのオンナノコのはずだよね……? とすがるような瞳《ひとみ》を向けるが、五和はキョトンとしたままだ、騒《さわ》ぎを聞きつけて博物館の人が来たら殴《なぐ》り倒す気なのだろうか。  防犯ベルの甲高い音にビビりながら、上条も博物館の中へ入る。  薄暗《うすぐら》い……というよりほとんど真っ暗だった。展示品を直接日光に当てないようにするため、窓を全《すべ》て塞《ふさ》いでいるのだろう。普段《ふだん》は蛍光灯の光があるから問題ないのだろうが、現在は非常口を示す淡い明かりしかないので、足元がかなり心許《こころもと》ない状態になっていた。 「土御門《つちみかど》が言ってたのは……」 「ここまでくれば私でも分かります。こっちみたいですよ」  槍を片手に五和は奥へ進んでいく。  上条がその後をついていくと、あったのは何の変哲もない床だった。ただし、展示用のガラスのショーケースの配置を見ると、何故《なぜ》かここだけ規則性が無視され、不自然に何もなかった。  五和はその不自然な床の周りをゆっくりと回る。彼女はしばらく観察すると、 やがて何か満足げに頷《うなず》いた。 「やっぱりここみたいです。ローマ正教式に加工された力……他宗教の術式に対する一種の浄化作用のようなものが感じられます。西洋十字教社会特有の『脈』ですね。かなり近づかないと感知できないぐらい、巧妙に隠蔽《いんぺい》されていますけど」  彼女はこちらの顔を見てこう言った。 「……ツチミカドさんはまだ来ていませんが、敵に気づかれる前にやってしまいましょう。これからパイプラインの切断に入りますから、ちょっと下がっていてくださいね」 「何もないように見えるけどな」  上条は五和の近くにある床をジロジロと見ながら、 「……ていうか、パイプラインの切断ってそんな簡単にできるモンなのか?」 「地脈を丸ごと一本切断するとなると、莫大な人員が必要になりますけど」  あはは、と五和は笑って、 「あくまで、教皇庁宮殿とバチカンを結ぶラインが使えなくなれば、それで済むだけですから。意図的にちょっと傷をつけて、ラインの方向をズラすだけですので、私一人でも何とかなりますよ」  なるほど、と大して分かっていないのに上条《かみじょう》いた。  とにかく|幻想殺し《イマジンブレイカー》のせいで邪魔《じゃま》になるのは避《さ》けなきゃな、と彼は五和《いつわ》から少し離《はな》れた。  天草式《あまくさしき》の少女はバッグを置くと、その中をゴソゴソと漁《あさ》る。どうやら術式に使うための日用品を選んでいるらしい。  上条はそれを見ながら、 「天草式って、そういうのを使って術式を作るんだっけか?」 「え、ええ。今必要なのは……カメラに、スリッパに、パンフレットに、ミネラルウォーターに、白いパンツ───」  取り出してから、五和は『ひゃあっ!?』と叫んで、おそらくさっき着替えた時に脱いだものであろう下着を慌ててバッグへ戻した。  顔を真っ赤にしたまま、しかし五和の動きがピタリと止まる。 「ど、どうしたんだ五和?」 「……なんです」  ポツリと、五和は動きを止めたまま呟《つぶや》いた。 「この術式の構成に、どうしても必要なんです……」  彼女は希望を失った顔で、ゆっくりした動作で下着をバッグから取り出した。泣きそうな五和《いつわ》を見て上条《かみじょう》は後ろを向こうかとも思ったが、彼女の方から『い、いえ。気にしないでください』と言われてしまったので何とも身動きがとれない。  五和は五和で、バッグから取り出したものを床の上へ並べていく。一見すると円形……のようだが、おそらく細かい規定みたいなものがあるのだろう。  それらの配置を終えると、少女は手の中の槍《やり》をくるりと回して、その穂先《ほさき》を下に向ける。 「行きます」  一言告げると、五和はその槍を両手で床へ突き刺した。  円形のちょうど真ん中辺りだ。  石に刃物がぶつかるような音はしない。  泥の中に沈むように、槍の先端がズブリと床へ消えていく。 (五和がパイプラインを切ったら、それでC文書の効力もなくなる。つまり、この旧市街で起こっている暴動も治まるはずだ)  天草式《あまくさしき》の少女は床に槍を突き刺したまま、口の中で何かを呟《つぶや》く。  彼女の突き刺した槍が、ゆっくりと、ゆっくりと、さらに深く沈んでいく。 (でも、そうなったら教皇庁宮殿でC文書を使ってる連中も、自分|達《たち》の失敗に勘付く。形勢が不利だと判断されたら、C文書を持ってバチカンへ逃げ帰られる危険もある)  彼女の足が動き、その踵《かかと》が床を蹴《け》る。  槍を掴《つか》んでいる手の中で、人差し指だけが槍の柄《つか》を小さく叩《たた》いてリズムを取る。 (だから時間が勝負だ。暴動が治まったら速攻で教皇庁宮殿へ走る。別動の土御門《つちみかど》と連携を取りながら、連中が建物から消える前に押さえるんだ)  槍は半分以上床の中へ潜《もぐ》り、その柄尻《つかじり》は五和の胸の高さまで落ちていた。  彼女は一度手を放し、改めて槍を掴み直す。  そして手首をひねり、槍をねじった。  まるで、巨大な鍵《かぎ》を回すように。  次に来たのは音だ。  ただし。  それは五和の槍が生み出したものではない[#「それは五和の槍が生み出したものではない」に傍点]。  ゴッ!! と。  唐突に博物館の外壁を引き裂いた何らかの攻撃《こうげき》が、床に埋まった槍ごと五和の休を狙《ねら》って襲《おそ》いかかったのだ。  感覚としては、巨人の振るう刃。  色は白。  攻撃《こうげき》は五和《いつわ》に向かって一直線に進む。  それに気づいた彼女は床へ槍《やり》を突き刺したまま、体の位置をズラす事で槍の後ろへ回る。放たれた攻撃は五和のすぐ横を突き抜けたが、破壊《はかい》された外壁の欠片《かけら》───と言っても一抱えもある岩の塊が五和の槍の真ん中に直撃した。 「五和!!」  攻撃を受けた五和の槍が、真ん中から容赦《ようしゃ》なくへし折られる。  その余波を受けた五和は、折れた槍を掴《つか》んだまま大きく後ろへ仰《の》け反った。  一定の破壊を巻き起こすと、白い攻撃は煙のように揺らいで消える。 「この……ッ!!」  五和は真ん中から折られた槍の上下パーツを両手で持つ。棒の折れた部分を接続部《アタッチメント》から外して切り捨てると、床に置いていたバッグを蹴《け》り上げ、空中にあったバッグの中から替えの棒を取り出し、再び取り付けて一本の槍を作り上げる。  第二撃は直後に来た。  外壁を次々と引き裂いて、建物の外から『白い刃』が襲《おそ》いかかってくる。  壁から壁までを一気に突き抜けた『白い刃』の動きは、まるで子供が乱暴に木の枝を振るうような雑なものだ。しかし、そこへ圧倒的な破壊力が加わると状況は変わってくる。石の壁や床が崩れ、ガラスのショーケースが砕け散り、その破片が四方八方へ飛び交っていく。  ゴンガンバギン!! という轟音《ごうおん》が連続する。  身を屈《かが》める上条《かみじょう》からパラパラと細かい粉末が落ちてくるのを見た。 (まずい……建物自体が保《も》たない……ッ!!) 「五和!!」  上条は叫びながら、手の動きで出口へ走るように促す。  五和もそれに応じ、上条|達《たち》は急いで博物館の正面出口へ向かう。  その間にも『白い刃』は壁を引き裂き、獲物に追いすがるように振り回される。  一撃一撃ごとに、少しずつ狙《ねら》いが正確になってきているような気がした。  相手がこちらの逃げ方に慣れてきているのか。  あるいは、  遠距離《えんきょり》から攻撃している襲撃者《しゅうげきしゃ》が、少しずつこちらへ近づいてきているのか。  ギロチンのように落ちてくる刃の下をかろうじて潜り抜け、上条達はほとんど転がるように博物館の外へと飛び出した。  そこへ、 「おやおや。やはり近距離から放たなければ精度が落ちるみたいですねー」  声は間近から聞こえた。  鼻先数十センチの位置。  まるで最初からそこで待ち構えていたような人物に、上条《かみじょう》の方が面食らう。  眼前の人物は、上条の返事を待たずに右腕を振るった。  その腕には、白い何かがまとわりついていた。  緩《ゆる》やかな動きに反して、それは滑《すべ》り落ちるギロチンのような速度で上条の首を狙《ねら》う。  ドッ!!という空気を裂く轟音《ごうおん》が炸裂《さくれつ》する。 「おおおおおおおおッ!?」  とっさにかざした右手に、放たれた『白い刃』が激突する。 『白い刃』はその拍子に粉々に砕け散った。比喩《ひゆ》ではない。本当に白い粉末となって周囲一面へ飛び散ったのだ。  霧《きり》のように揺らぐ粉末のカーテンは、襲撃者《しゅうげきしゃ》の指の動きに合わせて再び集束していく。 「下がってください!!」  後ろから五和《いつわ》に叫ばれ、上条は慌てて襲撃者から距離《きょり》を取る。  ようやく上条の焦点が、襲撃者の全貌《ぜんぼう》へ合わせられる。  それは、緑色の礼服を着た男だった。  頭の先から足の裏まで、全《すべ》てが緑色の礼服。  白人にしては背が低いかもしれず、上条と同じかそれより下ぐらいだ。一方で、年齢は上条の二倍はあるかもしれない。体は痩《や》せぎすで、礼服の中も随分《ずいぶん》とゆったりしているように見える。頬《ほお》のこけた顔には妙な活力を感じさせた。  上条は右拳《みぎこぶし》を構えたまま、礼服の襲撃者へ尋ねる。 「……ローマ正教か」 「間違いではありませんが、どうせなら『神の右席』と呼んで欲しかったものですねー」  気軽な調子で言われて、上条は絶句した。 『神の右席』。  そこに所属する『前方のヴェント』は、九月三〇日にたった一人で学園都市の機能をほぼ完全に麻痺《まひ》させた事があるのだ。  彼女と肩を並べるとなると……。 「私の名前は、『左方のテッラ』」  男の手の中に集まった白い粉末が、形を成す。  それはやはりギロチンだ。  七〇センチ四方の正方形の下端を強引に斜めに断ち切ったような、板状の刃。本来ならロープを結んで吊《つ》り上げる部分の輪っかを、男は片手で掴《つか》んでいる。 「やっと私の出番がきたようです.、何せ、『|神の右席《わたしたち》』は人間が使うような普通の魔術《まじゅつ》は扱えませんからねー。C文書の行使は他《ほか》の術者に任せなくてはなりませんし」  テッラは処刑用の刃を無造作にぶら下げ、楽しそうに笑った。  にっこりと。 「そんな訳で、暇潰《ひまつぶ》しにでも付き合っていただきましょうかねー。対地脈用の探査に引っ掛かったのはあなた達《たち》が初めてですし、少しは楽しませていただけるとありがたいのですが」 [#「ここから3字下げ]   8 [#「ここで字下げ終わり]  外壁の崩れた博物館の手前に、上条《かみじょう》で視界が悪くなった中、それらを引き裂くように彼らは動く。  左方のテッラが右手を振るった。  左から右へ。  その動きに合わせて『白いギロチン』が動いた。掴《つか》んでいる、というより空中を漂っているものが腕と連動しているような感じだった。つい先ほどまで一メートル前後の大きさだったギロチンは、いきなり形を崩すと、白い津波となって横一線に全《すべ》てを薙《な》ぎ払っていく。  ドッ!! という轟音《ごうおん》が炸裂《さくれつ》する。 「おおおおっ!?」  上条はとっさに右手を構える。  そこを境に、破壊《はかい》の渦が後から追いかける。アビニョン旧市街の街並みは狭い。その左右に建つ崖《がけ》のような建造物をまとめて抉《えぐ》り取り、路上駐車してある自動車を吹き飛ばし、建物そのものを斜めに傾《かし》がせる。  上条の立ち位置の右か左か。  たったそれだけで、古い街並みと瓦礫《がれき》の山とが綺麗《きれい》に分かれていく。  確かに威力は高く、あの攻撃《こうげき》をまともに食らえばひとたまりもないが……、 (あいつの白い刃は俺の右手で何とかできる!!) 「五和!!」  上条は叫び、披女の返事を待たずにテッラの元へと走り出した。  テッラの攻撃をこちらで引き付け、その間に五利がテッラの懐《ふところ》へ潜《もぐ》り込む。それが最も効率的なパターンというヤツだ。  一方、テッラの方も上条の右手に注目したらしい。  不健康そうな目を細めながら、感心したように言う。 「本来なら今の一撃で死んでいたはずですけど。なるほど、それが|幻想殺し《イマジンブレイカー》。……前方のヴェントを追い詰めたと聞いていますがねー」  ニヤリと笑いながら、テッラはギロチンを振るう。  後ろから前へ。  その動きに合わせ、白い刃はネジのように尖《とが》り、その鋭い一撃《いちげき》が上条《かみじょう》の胸へと一直線に襲《おそ》いかかる。 「……ッ!!」  上条はどうにかそれを右手で弾《はじ》き飛ばすが、どうしても防御に集中してしまい足が鈍ってしまう。  ヒュッ、と。  そんな上条の横を、槍《やり》を携《たずさ》えた五和《いつわ》がやや身を屈《かが》めた状態で走り抜けていく。 「ふん」  テッラのギロチンが五和へ向けられる。  ドッ!! という膨大《ぼうだい》な音が耳を打つ。 一直線に放たれた白い刃を、しかし五和は上半身を振るようにして避《さ》けた。それでいて、彼女の足は止まらなかった。二度、三度と放たれる必殺の刃物を的確に回避《かいひ》しながら、海軍用船上槍《フリウリスピア》を構え直し、テッラの懐《ふところ》へと飛び込んでいく。  一度後ろへ引かれた槍が、勢い良く前方へ突き出される。  テッラはその槍を、横薙《よこな》ぎのギロチンで弾く。  さらに逆方向ヘギロチンを動かし、今度はテッラの攻撃が横から五和を狙《ねら》う。  カウンターのように放たれる巨大な刃。 「ッ!!」  五和はそれを無理に受け止めようとせず、斜め前へ跳ぶように、前へ進みながらも攻撃を避ける。そうしながら槍を後ろへ引き、力の溜《た》めを作ってから一気に突き出そうとする。しかし余計な回避行動を取ったせいか、五和の体のバランスは崩れていて、そのせいで攻撃までにわずかなラグが生じてしまっていた。  その間に、テシラは次のギロチンを放とうとする。  このままでは五和の槍よりも速く、テッラの白い刃の方が貫くが、  チカッ、と。  テッラの顔の横で、小さな光が瞬《またた》いた。  そう思った時には、すでにテッラの眼前で光の筋が交差し、さらに彼の周囲には直線的な複数の光が、蜘蛛《くも》の糸のように張り巡らされている。 「すみません、と謝っておきます……」  五和の口から声が漏《も》れると同時に、ギリギリという不穏《ふおん》な音が響《ひび》く。  限界まで力を溜めているその正体は、 「───七教七刃《しちきょうしちじん》!!」  鋼糸《ワイヤー》。  ゴバッ!!と空気を裂きながら、テッラを囲むワイヤーが凄《すさ》まじい速度で襲《おそ》いかかる。七方向から同時に攻める極細の刃は、足首から心臓までありとあらゆる箇所を切断しようと狙《ねら》いを定める。  テッラに避《さ》けるだけの余裕はなかった。  もしかしたら、拳銃《けんじゅう》の弾丸よりも素早かったのでは、と上条《かみじょう》は思う。  しかし、 「───優先する[#「優先する」に傍点]」  テッラの表情は変わらなかった。  ただ口元でそう呟《つぶや》いただけだった。テッラの体を狙う七本のワイヤーは、その体を切断するどころか、まるでタコ糸のように絡《から》みつくだけで、皮膚《ひふ》に傷一つ与える事もなかった。  五和《いつわ》の表情が驚愕《きょうがく》に染まる。  テッラは右腕を軽く振るい、それこそ蜘蛛《くも》の巣を裂くように、皮膚に接触している七本のワイヤーをブチブチと切り取っていく。 「ッ!!」  五和は息を吐《は》き、後ろへ引いていた槍《やり》を一気に前へ突き出す。  雷のような速度で、鋭い穂先《ほさき》がテッラの肩を貫こうとするが、 「優先する。───外壁を下位に、人体を上位に」  テッラが一言を呟いた途端だった。  彼の体が見えない入り口をくぐるように、背後の壁の中へと消えて行った。 「ッ!?」  五和の槍が、何もない壁に激突して甲高い音を立てる。  その衝撃《しょうげき》が手首に返ったのか、五和は歯を食いしばるような表情になった。  そこへ、 「優先する。───外壁を下位に、刃の動きを上位に」  ゴッ!!と、壁を突き抜けて、白いギロチンが五和の胴体目がけて横薙《よこな》ぎに襲いかかってきた。  五和は防ぐ事を諦《あきら》め、地面へ転がるようにして水平攻撃を避けていく。  千切《ちぎ》れた髪の毛が数本宙を舞う。  その間に、テッラは自ら破壊《はかい》した外壁の裂け目から再び外へと飛び出してくる。  回避《かいひ》行動を取った直後の五和を見つけ、再び無造作にギロチンを振るう。  地面に腹を密着させている今の五和《いつわ》では、これを避《さ》ける事はできない。  だから上条《かみじょう》は、五和とテッラの問に割り込むように飛び込んだ。 「おおおおおァあああッ!?」  五和の首に振り下ろされかけた巨大な刃を、ギリギリの所で右手を使って吹き飛ばす。  ギロチンが爆発し、周釧に白い粉末が飛び散っていく。  テッラの表情は崩れない。  あるのは余裕だけだ。 「優先する。───外壁を下位に、刃の動きを上位に」  テッラは再び告げると、再集結させた白い刃を横合いの壁へ無造作に突き刺した。  そのまま棚を倒すように、外壁ごとギロチンを振るう。  外壁が崩れ、メロンほどの大きさの岩の塊が数十も飛んでくる。 「ッ!!」  上条は起き上がりかけた五和の腕を掴《つか》んで強引に後ろへ下がる。ついさっきまで自分|達《たち》のいた場所が、あっという間に建材に潰《つぶ》されていく。  テッラはすぐさま追いすがらず、ゆっくりとした動作で瓦礫《がれき》を踏《ふ》んでこちらへ近づいてくる。 「|幻想殺し《イマジンブレイカー》の話は以前から耳にしていましたから、多少は期待もしていたんですがねー」  その右手に材質不明の白い刃をぶら下げて、テッラはうっすらと笑う。 「こうして見る限り、それほどでもないようで。正直に言って、実際に目《ま》の当たりにしてがっかりしましたよ。こんなのなら見なければ良かったなーと。ヴェント戦に勝利したらしいですが、あれは彼女の『天罰《てんばつ》』が消去された上、学園都市側が『堕天使《だてんし》』や『界の圧迫』などを使ってヴェントを内側から締《し》め上げていたからこその結果だったようですねー。仮に彼女の攻撃《こうげき》が万全なら、あなたごときで苦戦する事もなかったでしょう」  テッラの動きとは対照的に、上条は五和を庇《かば》うようにしながら、後ろへ下がっていく。 (これが……)  上条は背筋に寒いものを感じながらも、心のどこかで納得していた。  あのヴェントと肩を並べる男が、ただ刃物を使って攻撃してくるだけで[#「ただ刃物を使って攻撃してくるだけで」に傍点]終わるはずがないのだ。 (これが、『神の右席』……ツ!!)  思わず歯噛《はが》みする上条だったが、テッラはこちらの動揺が収まるまで大人しくしてくれるはずがない。 「おやおや。どうしたのですか」  テッラは笑う。  禍々《まがまが》しいギロチンを手にして。 「まさか、後ろへ下がっているだけで私に勝てるとは思っていませんよねー? もっと私を楽しませてください。これでは『調整』の参考にもならないんですが」 「くっ!!」  上条《かみじょう》と五和《いつわ》は重たい体を引きずり、二人同時にテッラへ向かって突っ込む。  テッラはギロチンを手にした右手を前へかざし、 「優先する。───槍《やり》の動きを下位に、空気を上位に」  それだけで、五和の動きがガクンと落ちた。  テッラの喉《のど》に向かって放たれたはずの槍の穂先《ほさき》が、空気の壁に阻《はば》まれるように止まっていたのだ。  上条はそれを横目で見ながら、右拳《みぎこぶし》を握り締《し》めてテッラの懐《ふところ》へと飛び込む。  しかしテッラの方が早い。  無造作に手を横に振っただけで、白い刃が放たれた。その巨大な刃は上条の右手をすり抜けて胴体に突き刺さる。 (しま……!?)  思考は途中で切断された。  親指以上の厚さの刃が皮膚《ひふ》を押して体に食い込む嫌な感触が伝わる。 激痛が爆発する。  ギロチンはそのまま上条の体をくの字に折り曲げ、横合いの壁へと思い切り叩《たた》きつけた。  ズン!! という鈍い音が走る。  その後に、ブチブチという嫌な音が体の中から響《ひび》いてきた。 (……ッ!?)  あまりの事態に、言語機能が吹き飛ぶ。  腹と背中の両方に圧迫が襲いかかり、上条の肺から空気が絞り出された。 「ご、は……ッ!?」  しかしそれだけだ。  土条の胴体は外壁のように両断されてなかった。  自分の体を押さえつけるギロチンを、上条は震《ふる》える手で殴《なぐ》りつける。巨大な刃が粉末状に飛び散ると、上条は地面に膝《ひざ》をついて、乱れた息を少しでも整えようとした。 「……、」  テッラは、自分のギロチンが破壊《はかい》された事を興味深そうに眺めていた。彼が一歩後ろに下がり、手先を軽く動かすと、それだけで粉末はテッラの元へと戻っていく。 (生きて、る……?)  鈍い痛みの残る腹をさすりながら、上条は思う。 (刃の直撃《ちょくげき》を受けたのに、まだ生きてる……?)  一番最初のテッラの奇襲《きしゅう》は、博物館の外壁を軽々と引き裂くようなものだった。それと同じ攻撃《こうげき》が放たれたら、上条《かみじょう》の体がただで済むはずがない。  となると、 (さっきと今の刃は、違う種類の攻撃なのか……?)  上条は自分の腹から、テッラの方に視線を移す。  崩れた博物館の前に立つテッラの表情は、余裕の一言だ。 (何かが威力を増幅してるのか。あの刃物にも何らかのトリックがあるって訳か)  一番怪しいのは、一つしかない。  一度|破壊《はかい》されたギロチンの調子を確かめているテッラを、上条は睨《にら》みつける。 「『優先する』……」  いつまで経《た》っても届かない槍《やり》を手元に引き、上条を庇《かば》うように位直取りを変更した五和《いつわ》がポツリと呟《つぶや》いた、そして彼女は槍の先に付着している粉末に気づき、 「……小麦粉?」  少し考え、それから五和の顔がギョッと強張《こわば》る。 「まさか、その武器……『神の肉』に対応しているんじゃ……」 「へえ。東洋人でも分かりますか」  絶句する五和に、テッラは挑発するように告げる。 「ミサでは葡萄酒《ぶどうしゅ》は『神の血』、パンは『神の肉』として扱われます。そしてミサのモデルとなったイベントは、言うまでもなく『十字架を使った「神の子」の処刑』ですよねー?」  テッラの言葉に、五和は唇を噛《か》む。  上条には分からないが、魔術《まじゅつ》を知る者にとってテッラの言葉には破壊力があるらしい。 「『「神の子」は十字架に架けられた』……冷静に考えれば、ただの人問に『神の子』を殺せた、というのは普通ではありません。私でも難しいでしょうねー。しかし、神話は時として『優先順位』を変更します。例えば『神の子』が世界人類の『原罪』を背負うために、本来の順位を無視して『ただの人間』にあっさりと殺されてしまったように」  そのギロチンが、ザラリと音を立てて崩れていく。  警戒する上条をよそに、テッラの顔はどんどん楽しげになっていく。 「『神の子』の神話を完成させるための秘儀《ひぎ》……優先順位の変更[#「優先順位の変更」に傍点]。それこそが私の扱う唯一の術式『光の処刑』です。小麦粉を媒体《ばいたい》とした刃物への任意変形はその副産物のようなものです。お分かりいただけましたでしょうかねぇ?」  つまりこういう事だ。 『ワイヤー』より『テッラの身体』が優先されたから、彼の体は傷一つつかなかった。 『外壁』より『小麦粉で作った刃』が優先されたから、あれだけの破壊力が生まれた。 『槍』より『空気』が優先されたから、五和の攻撃は途中で止まってしまった。 「この私の前では強さ弱さなど関係ありません。そもそも、その『順番』を制御できるのですからねー」  これが『神の右席』の力。  前方のヴェントは、神の扱う『天罰《てんばつ》』を振りかざして学園都市の機能を奪っていった。  今度は『神の子』の処刑。  魔術師《まじゅつし》というのはどいつもこいつも上条《かみじょう》の知らない理論や法則を扱う連中だが、その中でも特に『神の右席』の使うものは特殊な気がする。 「しかし、さて、どうしましょうか。私はタネを明かしましたけど、そこから先はありますか[#「そこから先はありますか」に傍点]。まさかと思いますけど、謎解《なぞと》きが終わったらそれでおしまいなんて考えてはいませんよねー?」  テッラの言葉に、上条は思わず右拳《みぎこぶし》を強く握り締《し》めた。  彼の言う通りだ。  仕組みを理解できた所で打開の策が見つからない。  だからこそ、テッラは余裕の表情で自分の隠し玉を上条|達《たち》へと見せつけた。 「時間を与えましようか」  いたぶるような口調で、テッラは言う。 「こちらとしても戦闘《せんとう》の延長自体は悪い事ではありませんし。今から一〇秒与えます。その間に、私を倒すなり私から逃げ出すなりするための策を練ってください。……もっとも、本当にそんなものがあるのなら、ねぇ?」  楽しそうに、あるいは探るように、テッラはこちらに話しかけてくる。  くそ、と上条は思わず吐《は》き捨てた。  左方のテッラとの問には、それほどの差が開いているのか。  歯噛《はが》みする上条に、テッラはその反応一つ一つを楽しむように眺めていたが、 「大サービスだな。一〇秒もあれば三つは策を思いつくぞ」  いきなり、上条の視界の外から聞き慣れた男の声が飛んできた。  上条がそちらを見る前に、赤い弾丸が空を切った。その正体はオレンジ色の炎をまとった折り紙だ。複雑に折られた正方形の紙切れは、コンクリートを削り取るほどの勢いでテッラの顔面目がけて襲《おそ》いかかる。  テッラはジロリと眼球を動かしただけだった。 「優先する。───魔術を下位に、人肌を上位に」  直撃《ちょくげき》はした。しかし折り紙はテッラの皮膚に触れた途端、急激に角度を変えて五和のすぐ横の壁へと激突する。金属の壁に弾丸を当てたような反応だった。  上条はようやく乱入者の顔を見る。  そこに立っていたのは、青いサングラスの少年。  無理に魔術《まじゅつ》を使った副作用か、その唇からは一筋の血が垂れていた。 「土御門《つちみかど》……ッ!?」  そう言った上条《かみじょう》の言葉に、土御門は小さく頷《うなず》いて答えた。  視線はテッラに向けたままだ。 「まさか」  テッラはギロチンを持った右手をだらりと下げたまま、小さく笑う。 「今のが打開策という訳ではありませんよねー?」 「残念だが」  土御門も笑っていた。  攻撃《こうげき》は不発に終わったはずなのに、その表情には余裕しかなかった。 「今のでお前は追い詰められた」 「……?」 「そして、次でチェックメイトだ。推論が確証へと変わっていっていると言っているんだよ」  言いながら彼が取り出したのは、魔術に関する物品ではない。  黒光りする拳銃《けんじゅう》だ。  親船最中《おやふねもなか》の腹を撃《う》ったあの拳銃だった。 「そんなオモチャで私を叩《たた》けるとでも?」  土御門は答えなかった。  引き金にかけた人差し指に力を込める。  特に遮蔽物《しゃへいぶつ》へ身を隠す事もなく、路土に突っ立っていたテッラはゆっくりとロを動かした。 「「優先する。───弾丸を下位に、人肌を上位に」」  テッラが発したその言葉に、土御門の声が重なっていた。  ガンゴンドン!! と銃声が立て続けに鳴り響《ひび》いた。  しかし放たれた鉛の弾は、テッラの顔と心臓に当たって弾《はじ》かれる。  圧倒的な結果。  にも拘《かかわ》らず、それを眺めている上御門の口元から笑みは消えない。「言ったよな。左方のテッラ」  土御門は片手で拳銃を構えながら、もう片方の手をポケットに突っ込んだ。  取り出されたのは、黒い色の折り紙だ。 「次でチェックメイトだって」 「───、」  左方のテッラは、土御門|元春《もとはる》の言葉を受けて短く黙《だま》った。  それから、ゆっくりと土御門に向けてギロチンを構え直す。  暴動に巻き込まれているはずの街並みに、妙な静けさが漂っていた。 (動く……)  上条《かみじょう》はそう思った。  良くも悪くも、次で戦況は大きく動く。  二人の対峙《たいじ》に呑《の》まれそうになっていた上条だったが、その時、いつの間にか近づいていた五和《いつわ》が、上条にそっと耳打ちしてきた。 「(……あの、ツチミカドさんが動いたら、その隙《すき》に乗じて走りますよ)」 「え?」 「(……あの人からの伝言なんです。重要なのは敵の打破ではなく、教皇庁宮殿にあるC文書を止める事だって)」  そう告げる五和の手には、折り紙があった。  そこに土御門《つちみかど》からの指示が書かれているのだろう。いつの間に受け渡ししたのかは分からないが、おそらく土御門はテッラとの会話中に伝言の折り紙を五和に投げ飛ばしていたのだ、  土御門とテッラが、じり……と、互いに一歩ずつ前へ進む。  二人がぶつかる。  そう思った上条の耳に、鼓膜を破るほどの轟音《ごうおん》が鳴り響《ひび》いた。 (───ッ!?)  それは魔術《まじゅつ》によるものではない。  爆薬がアビニョンの街並みを突き崩す音だ。  当然ながら、それは土御門やテッラが巻き起こしたものではない。  第三者が横槍《よこやり》を入れたのだ。  その証拠に、二人は忌々《いまいま》しげに舌打ちするとお互いに後ろへ下がって距離《きょり》を取る。  突然の出来事に驚《おどろ》く上条の前で、路上の脇に崖のように聳《そび》えていた集合住宅の外壁がガラガラと崩れていく。灰色の粉塵《ふんじん》が巻き起こり、それが上条|達《たち》の視界を奪っていく。  その向こうに爆音の元凶であるシルエットが見えた。  ただし、それは人間のものとは大きくかけ離《はな》れている。 「……何だよこれ。何がどうなってるんだ」  思わずポツリと眩く上条。  その視線の先、灰色のカーテンに隠された向こうで、歪《いびつ》なシルエットが蠢《うごめ》いていた。 [#ここから3字下げ]   9 [#ここで字下げ終わり]  学園都市の非公式編成機甲部隊は街の外周からアビニョン旧市街へ侵攻を開始した。  彼らの主要兵装はHsPS-15、通称は『ラージウェポン』。学園都市の技術の粋《すい》を集めて作られた駆動鎧《パワードスーツ》だ。  駆動鎧《パワードスーツ》とは西洋の金属|鎧《よろい》のように全身を特殊な装甲で覆《おお》い、なおかつ関節を電力駆動で動かす事によって、生身の人間の数倍から数十倍もの運動能力を叩き出す学園都市の新兵器だ。  規格によってサイズや戦力は様々だが、そこにいたのは全長一丁五メートルほどの大きさの金属の塊《かたまり》だった。  青と灰色の特殊な迷彩を施《ほどこ》された機体は、それぞれ二本の手足を持ったロボットのような『装甲』で、指も五本ついている。しかし、その駆動鎧《パワードスーツ》が『人間らしい』かと言われれば、答えはノーだろう。『頭』にあたる部分が巨大で、膨らんだ胸部装甲もあるせいか、まるでドラム缶型の警備ロボットを被《かぶ》っているようにも見えた。首はなく、胸に直接固定された『頭部』が回転している。  バギバギバギバギ!!という硬い物が潰《つぶ》れる音が響《ひび》く。  機械の脚が瓦礫《がれき》の破片を踏《ふ》んで前へ進む音だ。  数百年以上の時を過ごしてきた石畳や煉瓦《れんが》の残骸《ざんがい》が、いとも簡単に踏みにじられていく。  駆動鎧《パワードスーツ》の手には、不格好なほど銃身の太い特殊な銃器が握られている。  戦車の砲身を強引に短く切り詰めたような銃は大型のライフルにも見えるが、厳密には違う。  それはリボルバー方式の対隔壁用ショットガンだ。  この銃器に使われる弾丸は特殊なもので、たった一つの外殻《ショットシェル》の中へ、俗にアンチマテリアルと分類される弾丸を数十発詰め込んでいる。一発一発が戦車を撃《う》ち抜くほどの破壊力《はかいりょく》を秘め、近距離《きんきょり》から数発撃ち込めば核シェルターの扉であってもこじ開ける。普通なら火薬の爆発力に銃身の方が耐えられないのだが、火薬の種類と詰め込む配置を繊細《せんさい》に調節する事によって爆発力の方向を操り、必要最低限の銃身負荷で最大の破壊力を発揮させているのだ。  敵が籠城《ろうじょう》するシェルターの分厚い出入り口を真正面から打ち破って蹂躙《じゅうりん》するために開発された大型銃器を、数十の駆動鎧《パワードスーツ》は一斉にアビニョンの城壁へと向けていく。 『侵攻開始』  たった一言。  その声と同時に、対隔壁用ショットガンが火を噴いた。ポンプアクションのようなスライドを引くごとに、リボルバーのシリンダーが回転する。  数百年と人の出入りを制限していた石の壁が、ものの一瞬《いっしゅん》で紙くずのように吹き飛ばされていく。  瓦礫《がれき》を踏《ふ》んで駆動鎧《パワードスーツ》はアビニョンの旧市街へ入る。  人工物の二本足は、本物の人間よりも滑《なめ》らかな動作で進んでいく。  彼らの前には、今までアビニョンで暴れていた若者|達《たち》がいた。  そこには単一の恐怖や怒りはない。突然の出来事に、そういった感情に分類される以前の、もっとごちゃごちゃした感情の渦に翻弄《ほんろう》されて、がくがくと震《ふる》えている。  対して、駆動鎧《パワードスーツ》の対応は極めて単調だった。  彼らは一発で城壁を突き崩した対隔壁用ショットガンの太い銃口を、生身の人間へと直接突き付ける  短い声が、無線を介して仲間達へと伝わった。 『敵勢力を発見』 [#ここから3字下げ]   10 [#ここで字下げ終わり]  アビニョンの狭く入り組んだ道路など無視して、好き勝手に壁を崩して進みたい場所へと歩いていく大量の駆動鎧《パワードスーツ》耳えていた建物の外壁は突き崩され、その瓦礫の向こうに『彼ら』がいる。  あんなものが、普通の世界にあるはずがない。  駆動鎧《パワードスーツ》を実用レベルで開発できる機関など、学園都市以外に存在しないだろう。  彼らの手にあるのは、リボルバー方式の対隔壁用ショットガン。  駆動鎧《パワードスーツ》になる建物や自動車などを次々と吹き飛ばしながら、それに嘆いてがむしゃらに反撃《はんげき》してくるアビニョンの暴徒達へも容赦《ようしゃ》なくその銃口を向けていく。  人間の拳《こぶし》が簡単に入るほど太い銃身が火を噴く。  ゴン!! バン!! という轟音《ごうおん》と共に、人間が簡単に薙《な》ぎ倒された。  しかし、おそらくそれは実弾ではない。どういう機構か分からないが、あの対隔壁用ショットガンは複数の弾丸を使い分けられるようにできているのだろう。リボルバーの回転シリンダー内で偶数発と奇数発で扱う弾の種類を分けていて、二発ずつ回転させたりしているのかもしれない。この方式なら、偶数と奇数でモードチェンジさせれば、一応は説明がつく。  放たれているのは空砲だ。  しかし莫大《ばくだい》な炸薬《さくやく》を使って放たれる衝撃波《しょうげきは》は、それだけで人間の肺から酸素を吐《は》き出させ、その体を地面へ突き飛ばす。血気盛んな暴徒達の第一陣が沈黙《ちんもく》すると、第二陣、第三陣として控えていた暴徒達は、顔を青ざめて右往左往している。  駆動鎧《パワードスーツ》は彼らを見逃さない。  道路の隅で身を屈《かが》めてガタガタと震える市民の横をすり抜けると、一度でも抵抗の素振りを見せた者へは容赦なく空砲を撃《う》ち、音の弾頭を叩《たた》き込んでいく。そうして暴徒達を無力化しながら、駆動鎧《パワードスーツ》はショットガンを背中にある金属製リュックのようなパーツに固定し、機械任せで自動リロードさせていく。 (……どうなってんだよ)  あまりの状況に、上条《かみじょう》はその様子をただ傍観するしかなかった。 (土御門《つちみかど》の話じゃ、学園都市は動かないって話じゃなかったのかよ。動くにしても、どうしてこんなメチャクチャなやり方になっちまってんだ!?)  学園都市の上層部はアビニョンの問題に敢《あ》えて手を出さない事で、今の混乱を激化させようとしているらしい、というのが親船最中《おやふねもなか》の話だった。  機は熟した、という事だろうか。  混乱による必要分の損害額を達成したから、ここでスイッチを切るように全《すべ》てを終わらせようというのか。  上条は唇を噛《か》み締《し》める。  学園都市上層部。  統括理事会。  さらにそれを束ねる、実質上の科学サイドのトップ。 「なるほど。そうきましたか」  テッラは面白そうに呟《つぶや》く。  その一言で、驚愕《きょうがく》に彩《いろど》られた空気が再びテッラに支配される。  銃口から煙の出ている拳銃《けんじゅう》を構える土御門からも、突き刺すような敵意が放出される。 「確かに、教皇庁宮殿でC文書を操っているのは『普通の術者』ですし、これは少々|厄介《やっかい》な事になりそうですねー。もう少し、私の優先術式『光の処刑』の実戦データを取得しておきたかったのですが、まあ良いでしよう」  テッラはそう言いながら、上条|達《たち》になど目も向けず、駆動鎧《パワードスーツ》が集合住宅の外壁に空けた大穴を通ってふらりとどこかへ行ってしまった。 「待て!!」  土御門は叫ぶが、彼は直後に真横へ跳んだ。  上条がその真意を掴《つか》む前に、駆動鎧《パワードスーツ》が何らかの攻撃《こうげき》を行ったのか、集合住宅の中から派手な爆風が吹き荒れた。  ボッ!!という轟音《ごうおん》と共に、上条のちっぽけな体が真後ろへ薙《な》ぎ倒される。  テッラが入って行った大穴は、あっという間に炎に包まれてしまった。 「痛つ……ッ!?」 「だっ、大丈夫《だいじょうぶ》ですか!?」  五和《いつわ》が慌てて上条の手を取った。  彼女の手を掴んで起き上がる上条に、土御門は大声で言う。 「カミやん、動けるか。オレ達《たち》も教皇庁宮殿に行くぞ!!」 「あの駆動鎧《パワードスーツ》、どう考えたって学園都市製だろ!? 連中は動かないんじゃなかったのか!? 問題をややこしくしやがって。あいつらを止めなくて良いのかよ!!」 「今はテッラを追うのが先だ!!それに連中の目的もC文書だしな。あの霊装《れいそう》を破壊《はかい》する事でこの混乱を収められるかもしれない!!」 「ちくしょう。本当にあいつらは混乱を収めるつもりがあるんだろうな」  上条《かみじょう》は忌々《いまいま》しげに呟《つぶや》いた。  アビニョンの人達はC文書の暴動と駆動鎧《パワードスーツ》。果たしてどちらを憎んでいるだろうか、 「行くぞ、カミやん。今までは『神の右席』もオレ達を侮《あなど》ってたかもしれない。だが、こんな風になっちまったら、ヤツらも本格的に逃走に入る。C文書を潰《つぶ》すのは今しかないんだ!!」  くそ、と上条は思わず吐き捨てた。  その時、テッラの入って行った、そして今は炎に包まれている大穴の向こうから、数体の駆動鎧《パワードスーツ》み込んできた。  同じ学園都市の人間のはずなのに、こちらに駆動鎧《パワードスーツ》の銃口をピタリと向けている。  どこの所属か、いちいち確かめる気はないようだ。このアビニョンにいる者全員が攻撃《こうげき》対象として設定されているのだ。 「……カミやん、ここで二手に分かれよう。イツワだったか。お前もカミやんと一緒《いっしょ》に教皇庁宮殿へ向かえ」 「土御門《つちみかど》?」 「どうやらこのアビニョンには二つの問題があるらしい。駆動鎧《パワードスーツ》の方は放っておこうかと思ったが、それも難しいようだしな。カミやんはテッラを追ってC文書を何とかしろ。オレは後からやってきた学園都市の馬鹿者《ばかもの》どもを止めてやる」 「そんなの……」  できる訳がないだろ、と言いかけた上条を、土御門の言葉が封じる。 「連中は完璧《かんぺき》な敵って訳じゃない。一時的には戦うだろうが、基本的には会話できるチャンスを窺《うかが》ってみる。こういう駆け引きはカミやんよりオレの方が得意だろうが」 「……ちくしょう」 「行け、カミやん!!」 「ちくしょうッ!!」  上条は叫び、五和《いつわ》と一緒に細い道路を走った。後ろからは駆動鎧《パワードスーツ》の出す機械の作動音と、土御門が何かやったのだろう、氷の砕けるような音が連続した。魔術《まじゅつ》を一回使うだけで血まみれになる事を知っている上条は歯噛《はが》みするが、かと言ってできる事は何もない。  狭い道を走り、アビニョンの旧市街を進む。  火薬と煙の臭《にお》いが鼻についた。  逃げ惑う人々と、それを的確に追う駆動鎧《パワードスーツ》が街のあちこちに見える。 (どうなってやがる!!)  デモや暴動とは比べ物にならない、軍事行動という圧倒的な暴力を見て、上条《かみじょう》は頭の血管が切れるかと思った。  目的地となる教皇庁宮殿の位置は、以前からアビニョンを調べていた五和《いつわ》が覚えている。彼女に先導される形でそちらに目をやると、遠くの方にそれらしいシルエットが窺《うかが》えた。 [#改ページ] [#ここから3字下げ]  行間 三  ステイル=マグヌスは一度|処刑《ロンドン》塔から外に出た。  今日のロンドンはそこそこの陽気だったが、観光客の数はまばらだ。イギリスは他国と違って大規模な暴動などは起こっていないが、それでも緊張《きんちょう》した雰囲気《ふんいき》は街中に広がっている。 「『神の右席』か……」  新しい煙草《タバコ》を口に咥《くわ》えながら、ステイルはポツリと呟《つぶや》いた。  リドヴィア=ロレンツェッティの話によると、正式なメンバーはわずか四人。それぞれが四大天仙の属性を秘めているらしい。 「どう思いますかね、今の話」  一緒《いっしょ》に建物の外へ出たアニェーゼロサンクティスが退屈そうな声を出した。 「連中の話、どこまで本当なんですかね。少なくとも私はローマ正教時代にああいう話を聞いた事はありません。こちらを撹乱《かくらん》させるために嘘《うそ》を言っているかもしれませんよ」 「そいつは否定できないが、尋間室での会話は魔術的《まじゅつてき》に記録されている。君が羊皮紙《ようひし》に書いていたあれだ。それを再分析すれば、ある程度の真偽は掴《つか》めるよ」  もちろん完壁《かんぺき》とは断言できないけどね、とステイルは付け加えた。  言いながら、ステイルは考える。  リトヴィアの話が真実なら、『神の右席』とはローマ正教暗部の組織名であると同時に、彼らの最終的な目標の名前でもあるという。 (……右側の、座席ね。ヒントのような、そうでないような。これだけでは絞り込みきれていないな。とりあえずは引き続きヤツらの話を聞いてみるか)  ステイルはアニェーゼの顔を見た。 「もう少し休憩した方が良いかな」 「いえ、さっさと終わらせちまいましょう」  そうか、とステイルは短く言った。  それから、彼らは再び暗い処刑《ロンドン》塔へと戻っていく。 [#改丁] [#ここから3字下げ]  第四章 空を覆う鋼鉄の群れ Cruel_Troopers.   1 [#ここで字下げ終わり]  上条《かみじょう》はアビニョンの街を走っていた。  あれだけ恐ろしかった暴徒|達《たち》はもういない。  その大半が、駆逐《くちく》されてしまっているのだ。  道路はあちこちがめくれ上がり、建物の壁は切り崩され、道はまともに進めない状態だった。  立ち往生している車も多い。上条は煙や火薬の匂《にお》いのする空気を引き裂き、時には瓦礫《がれき》を乗り越え、穴の空いた壁を潜り抜けながら教皇庁宮殿に向かって走る。  街のあちこちに駆動鎧《パワードスーツ》がいた。  あるいは路上に、あるいは建物の屋根に。ちょっと観察しただけでこれだけ見つけられるのなら、アビニョン全体で数百、数千はいるかもしれない、と上条は思う。 (くそ、どうなってるんだ……)  水道管が破れて水浸しになった道路を走り抜け、へし折れて横倒しになった街灯を飛び越えながら、上条は歯噛《はが》みする。 (戦争を仕掛けてきたのはローマ正教の方なんだろ。学園都市はそれを止めるために動いているはずなんだろ。なのに、何でこんな事になってんだよ!!)  この戦場には決定的に足りないものがある。  血の匂いだ。  駆動鎧《パワードスーツ》の持っているリボルバー方式の対隔壁用ショットガンは複数の弾丸を使い分けられるようで、生身の人間に当てているのはあくまでも空砲だ。しかし莫大《ばくだい》な炸薬《さくやく》によって生み出される銃声はもはや衝撃波《しょうげきは》と化していて、音の砲弾は容赦《ようしゃ》なくアビニョンの暴徒達を薙《な》ぎ倒していく。  気を失った暴徒達は、あちこちで山のように積み上げられていた。そのすぐ傍《そば》で、駆動鎧《パワードスーツ》が防弾|繊維《せんい》を織り交ぜた巨大なバルーンを膨《ふく》らませている。 (偵察用の……?)  学園都市製のドラマでそんなものを見た。  小型カメラを搭載したバルーンで、気球のように空気を暖めて空中を移動する。空気を温めるのに電子炉を使うためバッテリーの消費が激しいのが弱点だが、プロペラ式のものより無音だし、何より単価が安くて携帯性にも優《すぐ》れているらしい。  現在|駆動鎧《パワードスーツ》が膨《ふく》らませているのは、ドラマで見るのよりも何倍も大きく、バルーン下部には同じく防弾|繊維《せんい》のゴンドラまでついていた。  おそらく用途は本来の気球に近いのだろう。気を失った人問を放り込み、機械任せで作戦行動領域の外へ迫い出してしまう訳だ。  改めて周囲に口をやれば、タンポポの綿毛が風に流されるように、あちこちに黒いバルーンが浮かんでいるのが分かる。  つまり、それだけ多くの人々が駆動鎧《パワードスーツ》ぎ倒されていったのだ。 「……、」  彼らの考えは、土御門《つちみかど》と同じかもしれない。  狭いアビニョンの中を闊歩《かっぽ》する暴徒|達《たち》は作戦に支障をきたす。C文書を持った敵は暴徒に紛れて逃げ出す可能性もある。よって、まずは暴徒を黙《だま》らせた上で本命を叩《たた》こう、と。  しかし、 「土御門は、こんな手は使わない……」  え? と首をこちらに向けた五和《いつわ》に、上条《かみじょう》は答えない。  上条は走りながら、爆発した自動車を見て拳《こぶし》を強く握り締《し》めた。 (自分達の行動を優先したいってだけで、暴力を使って街の人々を屈服しようとするなんて、こんな方法が認められてたまるか!!)  統括理事会の一人、親船最中《おやふねもなか》が何を止めようとしたかったのか、上条はようやくそれを知った。彼女は単にローマ正教を憎んでいたのではない。学園都市の敵を倒してほしかったのでもない。全《すべ》てはこの状況───何もかもを破壊《はかい》していく『争い』そのものを阻止してほしかったのだ。 (止めてやる)  上条は歯を食いしばって、戦場となった街を走る。 (こんな崩壊の渦を放っておいて良いはずがない。この状況を少しでも正当化するヤツが出てくるなら、そんな幻想は全部ぶち壊《こわ》してやる!!) 「つ、着きました、あそこです……!!」  そうこうしている内に、上条と五和は教皇庁宮殿までやってきた。  言葉のイメージから荘厳《そうごん》な教会や煌《きら》びやかな宮殿を思い浮かべていた上条だったが、実際にそこにあったのは、中世の要塞《ようさい》だった。城というよりは砦《とりで》。切り出した岩を積み重ねて作り上げられた巨大な建造物は、見る者を拒絶するような感覚すら与えてくる。  一〇メートル以上の高さを誇る外壁に見下ろされている上条だが、彼は教皇庁宮殿を見た途端に思わず顔をしかめた。 「風穴が……」  槍《やり》を携《たずさ》えた五和が、ポツリと呟《つぶや》いた。  両開きの巨大な正面入り口は内側に吹き飛ばされ、高い階にある窓は周囲の壁ごと粉砕されていた。中に誰《だれ》かいるのか、断続的な銃声や爆発音が聞こえてくる。 「もう始まってやがる。行くぞ、五和《いつわ》!!」 「は、はいっ!!」  銃声の聞こえる建物の中に入るなどまともな考えではないが、行くしかない。 [#ここから3字下げ]   2 [#ここで字下げ終わり]  土御門元春《つちみかどもとはる》は血まみれになっていた。  駆動鎧《パワードスーツ》から銃弾を受けたのではない。彼らの目を逸《そ》らす為に折り紙の魔術《まじゅつ》を使った副作用だ。  なけなしのチャンスを得た土御門は、狭い道路を走る。そのまま転がるような格好で、路上駐車してあった自動車の陰へ隠れる。  いくつもの銃声が空気を引き裂いて襲《おそ》いかかってきた。  ただの空砲であるにも拘《かかわ》らず、その空気の塊《かたまり》には暴徒|鎮圧《ちんあつ》効果まで備わっていた。一撃《いちげき》で車のガラスが砕け散り、音の塊によって金属製のドアがあっという間にベコベコとへこんでいく。 (ふざけやがって……)  土御門は白動車の側面に張り付いたまま舌打ちした。  当たっても簡単には死なないが、気絶するのは必至だ。盾の陰に固められてしまった土御門は、そこでダン!!という鈍い別の音を耳にした。  ギョッとしてそちらを見ると、複数いる駆動鎧《パワードスーツ》の一体が驚異的《きょういてき》な跳躍力《ちょうやくりょく》で一〇メートル以上も空中を進み、土御門の真上へ迫っていた所だった。 「くそっ!!」  土御門がとっさに後ろへ下がるのと、駆動鎧《パワードスーツ》の巨体が自動車を踏《ふ》み潰《つぶ》したしたのはほぼ同時だった。重量に耐えきれずに大きくひしゃげた車体が一気に爆発する。その煽《あお》りを受けた土御門の体が、自分の跳躍以上の距離《きょり》を無理矢理に飛ばされていく。  ゴロゴロと路上を転がっていく土御門に、炎の中の駆動鎧《パワードスーツ》は平然と対隔壁用ショットガンの銃口を向けてくる。  辺りは細い道の左右に崖《がけ》のような建物が並んでいる区画だ。土御門は曲がり角を抜ける事で建物を盾にしようとしたが、それより先に駆動鎧《パワードスーツ》が動いた。銃声と共に放たれた空気の塊が土御門の足に直撃する。  足払いを受けたように土御門の体が転がる。  地面に伏したまま、彼は何とか角を曲がる。 (ぐっ……あああああ!?)  足首の辺りを見ると、青黒く変色していた。何とか骨は折れていないようだが、動きが制限されるのは間違いない。 (駆動鎧《パワードスーツ》の数は……ザッと見ただけでも十四。装甲は薄《うす》そうだが、ありゃ対戦車ミサイルぐらいなら真正面から受け止められるはずだ。おまけに……)  角の向こうから聞こえてくる機械の作動音を耳にしながら、土御門《つちみかど》はポケットから応急処置用のテーピングを取り出し、それで強引に足首を固めていく。 (……新型の駆動補正装置を使ってやがるな。戦場の条件をその場で学習し、最も効率的なパフォーマンスを叩《たた》き出すように自動調節するドライバだ)  熱帯雨林や南極大陸など、同じ兵器を使う場合であっても環境によって性能は上下する。砂漠では砂が入るのに注意しなくてはならないし、湿地では泥にはまらないように気を配る必要がある。  通常は地域ごとに『使いやすい整備』を行ったり、地域ごとに自然と兵器の特色が変わったりするのだが、この駆動鎧《パワードスーツ》は別。機械が周辺環境を走査して自動的に調整を行うため、デフォルト状態のまま世界中の戦場で活躍《かつやく》できるのだ。 (自動調節情報は作戦行動中の全機へ送受信されているはずだ。ハハッ、多分このアビニョンの歩き方を一番知っているのはヤツらだな)  足のある兵器の場合はそのバランスの維持がネックとなるのだが、彼らにその弱点は通用しない。崩れかけた足場であっても、生身の人間よりも上手に歩いて乗り越えてくるはずだ。 (くそ、どう攻める……)  土御門|元春《もとはる》はテーピングで固めた足首の調子を確かめながら、思う。  そうしている間にも、ヤツらは近づいてくる。 [#ここから3字下げ]   3 [#ここで字下げ終わり]  教皇庁宮殿の中は広かった。  しかしそこには寂しさも含まれている、と上条《かみじょう》は思う。とにかく物がないのだ。壁紙すらない剥《む》き出しの石の壁に囲まれた空間には、天井《てんじょう》を支える柱が等聞隔に立っている他《ほか》には、何も置かれていない。すっかり財宝を持ち出された後のピラミッドのようだった。 (やっぱり……ローマ正教の大部隊がアビニョンに展開されてるって訳じゃなさそうだ。少数精鋭って事は、C文書ってのは同じローマ正教の目にも触れさせたくないとかいう話なのか。もしかすると、テッラが個人的に部隊を組んで動いてるだけなのかも) 「誰《だれ》も……いないみたいですね」  五和《いつわ》は槍《やり》を構えながら、そんな事を言った。  平日は観光地としても開放されているのだが、それどころではないのだろう。今までアビニョンは暴徒の影に怯《おび》えていたし、現在は駆動鎧達《パワードスーツたち》が暴れている中心点なのだから。  銃声や爆発音は今も続いていた。  続いているという事は、一方的な制圧ではなく交戦状態になっているのだろうか。  このアビニョンにはテッラの他《ほか》にも、C文書を扱うための魔術師《まじゅつし》もいるらしい。学園都市の駆動鎧《パワードスーツ》だが、そんな連中とまともに戦っているローマ正教も普通ではない。  今この場で両方の勢力から攻撃《こうげき》を受ける訳にはいかない。自然と歩調がゆっくりになる上条《かみじょう》だったが、 「……そもそも、あの駆動鎧《パワードスーツ》。一体どこから出てきたんだ」 「え?」  こちらを見る五和《いつわ》に、上条は言う。 「乗っているのは学園都市の人間なのか。それとも協力派の機関に装備を貸しているのか。大体、ここまで派手に動いたら隠蔽《いんぺい》も何もないだろ。学園都市は一体どうするつもりなんだ……?」  携帯電話にはテレビ機能がある。  この状況で下手に音を出すのは危険だが、それでもやはり情報は欲しい。  上条は周りに誰《だれ》もいない事を確認すると、携帯電話を取り出してテレビ機能をつけてみたが、海外のチャンネルには対応していないのか、何も映らない。上条は少し考えてから、やがて携帯電話の登録メモリを呼び出した。そこにある番号の一つに電話をかける。 「御坂《みさか》!!」 『なっ、何よ』  電話の相手は御坂|美琴《みこと》だ。 「ちょっと聞きたい事があるんだけど、今|大丈夫《だいじょうぶ》か?」 『へ、へえ。それって私じゃないとダメな訳? 他の人でも別に良いんじゃないの。例えばウチの母とか』 「ん?……そうか、そうだよな。別に御坂じゃなくても、美鈴《みすず》さんとかに尋ねても」 『ノンノンノンノン!! ちょ、アンタ私に何か聞きたい事があったから掛けてきたんじゃなかったっけ?』 「??? まあ、美鈴さんよりも、学園都市内のヤツの方が良いか」  上条は首を傾《かし》げ、とりあえず本題に入った。 「御坂、ニュース見れるか。ネットでも良い。海外のニュースで、アビニョンって街でなんか起きてないか調べてほしいんだけど」 『はあ?』  あまりにも唐突な質問だったせいか、美琴はそんな声を出した。  ……と思っていたのだが、どうも事情は違うらしい。 『アンタ何を言ってる訳? テレビなんてどこを点《つ》けても臨時ニュースしかやってないじゃない。アビニョンってフランスの街でしょ。なんかそこで、どっかの宗教団体が国際法に抵触する特別|破壊《はかい》兵器を作ってて、その制圧掃討作戦が開始されたって大騒《おおさわ》ぎになってるでしょ』 「……、何だって?」  ギョッとする上条《かみじょう》はさらに言う。 『何でも本来ならフランス政府が始末する所を、特殊技術関連のエキスパートが必要だからって、学園都市がかなり深く食い込んでるとかって話だけど。……つか、アンタ今どこにいる訳? むしろこの情報が入ってこない場所を探す方が難しいんじゃないかしら』 「え、ええとだな……」  上条はどうごまかそうか考えたが、その途中で思考が切れた。  轟音が消えたからだ。  銃声を中心とした戦闘《せんとう》の物音が、いつの間にかピタリと止《や》んでいた。教皇庁宮殿が本来持っていたであろう、耳が痛くなるような静寂がゆっくりと戻ってくる。 (……、)  電話で美琴が何かを言っていたが、上条は答えない。  息を殺して耳に意識を集中するが、やはり何の音も捉《とら》えられない。  傍《かたわ》らにいる五和《いつわ》と顔を見合せ、ゆっくりと前へ進む。 (何だ……?)  通路の奥から、壁の隙間《すきま》から、ドアの向こうから、得体《えたい》の知れない緊張感《きんちょうかん》が染《し》み出してくるような気がした。雰囲気《ふんいき》そのものが、それまであったものから別のものへと塗り替えられていく感じだ。  上条はその原因を看破する事はできなかった。  看破する前に、答えは向こうからやってきてしまったからだ。  ゴバッ!! と。  轟音《ごうおん》と共に、上条の真横にあった分厚い壁が唐突に破られた。  壁を突き崩したモノの正体は駆動鎧《パワードスーツ》だ。  上条の体に駆動鎧《パワードスーツ》がぶつかった。上条はそのまま床に押し倒される。手にしていた携帯電話が床に落ち、液晶画面が粉々に砕け散った。 「っ!?」  五和が慌てて槍《やり》の穂先《ほさき》を駆動鎧《パワードスーツ》へ突き付けるが、その手が途中で止まる。  手足をだらりと下げた駆動鎧《パワードスーツ》に機能停止状態に迫い込まれていたからだ。何者かに投げ飛ばされた───そう表現するのが最も的確だろう。  駆動鎧《パワードスーツ》が投げ捨てられた周りに、ばらばらと筒状の物体が転がっていく。三五〇ミリの缶ジュースほどの筒の正体は、駆動鎧《パワードスーツ》が使っていた対隔壁用ショットガンの弾丸か。別の場所には、それらしき巨人なリボルバー方式の銃器も落ちている。 「くっ……」  頭を振りながら起き上がった上条《かみじょう》は、そこでカツンという足音を聞いた。  顔を上げる。  五和《いつわ》が上条を庇《かば》うように槍《やり》を構えていた。  さらにその先。  力によって強引に崩された壁の向こうに、白く巨大な刃物を携《たずさ》えた魔術師《まじゅつし》が立っていた。  左方のテッラだ。 『優先』の魔術を使って駆動鎧《パワードスーツ》を潰《つぶ》した男は、汗一つかいていなかった。 「やられましたねー」  間延びした中に、わずかな苛立ちの混じった声が飛んでくる。 「暴動という混乱を収めるために、さらに大きな混乱を生んで呑《の》み込んでしまうとは。学園都市もそれだけ本気という訳ですか。ある程度の国際的非難を受けてでも、こいつ[#「こいつ」に傍点]をどうにかしたいようですねー」  白いギロチンを持つ手とは反対の左手。  そこには丸められた羊皮紙《ようひし》が握られていた。長さは一五センチ程度、、直径は三センチ程度の小さな紙切れ。蝋《ろう》で封をされたそれこそが……。 「C文書……」  五和が呆然《ぼうぜん》とした調子で呟《つぶや》いた。  発言者の言葉を全《すべ》て『ローマ正教にとって完壁《かんぺき》に正しいもの』と思い込ませてしまう強大な霊装《れいそう》だ。それを使用していた本来の術者ではなく、テッラがそれを握っているという事は……。 「まったく、面倒な連中です。私一人で蹴散《けち》らすのは簡単ですが、こいつを扱う術者へ集中的に攻撃《こうげき》されてしまうと、やはり術式の行使に影響《えいきょう》が出る。まったく、人間の術式を扱えないっていう私の『体質』も問題ですね。おかげで凡人の術者に足を引っ張られる始末ですし……今回はこの辺りで切り上げておくのが得策というヤツでしょうねー」 「黙《だま》って行かせると思うか」  上条はゆっくりと右手を構えながら、言う。 「C文書はバチカンに帰っても扱える。それを知っていて、俺《おれ》が行かせると思ってんのか?」 「だから何だと言うのです。このアビニョンを制圧している学園都市の部隊では、私を止める事はできないんですがねー。それとも、あなたの右手は彼ら全員よりも優《すぐ》れていると? そう断言できる根拠があるんですか」 「……ッ」  この教皇庁宮殿から銃声がなくなった時点で、ここに突入した駆動鎧《パワードスーツ》の連中は全て彼に撃破されてしまったと考えるべきだ。  そこまでの実力を誇るテッラは、さらに嘲《あざけ》るように上条達《かみじょうたち》へ笑いかける。 「とはいえ、何もしないで納得しろというのも難しいでしょうし」  彼は左手に持ったC文書を懐《ふところ》へ収め、右手の白いギロチンをゆったりと構えながら、 「存分に挑戦し、存分に諦《あきら》めてください。こちらとしても、そういう展開の方が面白くて大好きなんでね」 [#ここから3字下げ]   4 [#ここで字下げ終わり]  アビニョンの街並みが次々と崩されていく。  衝撃波《しょうげきは》のような空砲で意識を奪い取られた暴徒達は.頑丈な駆動鎧《パワードスーツ》に引きずられ、山のように積み上げられ、防弾|繊維《せんい》を織り込んだバルーンに乗せられてどこかへ運ばれていく。  そんな中を、土御門元春《つちみかどもとはる》は走っていた。  彼は瓦礫《がれき》や車の陰へ次々と位置を変えていき、細かい移動を繰《く》り返す事で追っ手の駆動鎧《パワードスーツ》から逃げていく。可能な限り遮蔽物《しゃへいぶつ》によって射線から逃れる動きを取っているものの、それでも断続的に発砲音が炸裂《さくれつ》する。できるだけ平坦《へいたん》な地面は避《さ》け、街灯が倒れて横倒しになっていたり、道路が崩れていたりする所を選んで進んでいくが、 (チッ。やはりこの程度では転倒はしない。駆動補助装置が効いてやがるか……ッ!!)  バランスの悪い二足歩行型であるにも拘《かかわ》らず、相当な重量を誇る駆動鎧《パワードスーツ》だが、連中の挙動には少しも危なげがない。平地の時に見られた、一歩一歩|踏《ふ》み潰《つぶ》すような歩行ではなく、ゴキブリのように滑《なめ》らかに動くのだ。  あらゆる環境を走査し、その状況に最も的確な調整を自動で行っていく駆動鎧《パワードスーツ》。彼らは自動車のような速度で進みながら、人間よりも柔軟に地面を踏みしめて土御門を追う。  チェックメイトは時間の問題だった。  土御門は道路の真ん中で立ち止まる。左右にある背の高い建物が大きく崩れ、土砂崩れのように道を塞《ふさ》いでいた。瓦礫はかなり大きなものなので、破片の突起を掴《つか》みながらよじ登れば乗り越えられない事もないが、駆動鎧《パワードスーツ》達はそんな時間を与えないだろう。壁に張り付いている。間に背中を撃《う》たれるのがオチだ。  背後から、ガチン、という金属音が響《ひび》いた。  歯車が回るような鈍い音。  土御門の背筋に寒いものが走る。これまで聞いた事のなかった、何かを切り替えるような音。その正体を想像するのは簡単だ。 (……対隔壁用ショットガン)  暴徒|鎮圧用《ちんあつよう》の空砲から、核シェルターのゲートをこじ開けるための実弾へ変換する音。 (───来る!!)  土御門《つちみかど》は振り返らず、真横へ全力で跳ぶ。直後、体を叩《たた》くような爆音が炸裂《さくれつ》した。今まで行き先を封じていた土砂崩れのような瓦礫《がれき》の山が、ゴバッ!!と一気に虚空《こくう》へ消える。たった一発で、直径数メートルの円形の風穴が開いた。 「……ッ!!」  耳を押さえながら、土御門は背後を見る。  拳《こぶし》が丸ごと入りそうな銃口をこちらに向ける駆動鎧《パワードスーツ》が、さらに引き金に指をかける。  アビニョンの道は狭い。  これ以上横へ跳んで避《さ》ける事は不可能だ。 「ッ!? |青キ木ノ札ヲ用イ我ガ身ヲ守レ《デクのボウどもせめてタテとしてヤクにタて》!!」  土御門が折り紙を取り出して叫ぶのと同時に、銃声の爆音が真正面から来た。  ドォン!!という轟音《ごうおん》と共に発射された十数発の対物弾は、土御門のわずか手前で盾に弾《はじ》かれるように周囲へ散って建物の壁を破壊《はかい》していく。  土御門の唇から、ごぷっ、と血の塊《かたまり》が漏《も》れた。  魔術《まじゅつ》による副作用。  それを受けても、土御門はさらに黒い折り紙を取り出して叫ぶ。 「|黒キ色ハ水ノ象徴《さあおきろクソッたれども》。|其ノ暴力ヲ以テ道ヲ開ケ《ぜんぶこわしてゲラゲラわらうぞ》!!」  何もない空間から唐突に直径一メートルほどの水の球体が生まれ、それが勢い良く駆動鎧《パワードスーツ》へ突き刺さり、その巨体を一気に後ろへ吹き飛ばした。  しかしそこが限界。  立て続けに魔術を使った事で、土御門の脇腹《わきばら》からジワリと血が滲《にじ》んだ。古い建物の外壁に手をつこうとしたが、その手が届く前に片足がガクッと落ちる。 「くそ……」  軽く周囲を観察するだけで、数体の駆動鎧《パワードスーツ》が見えた。さらに建物の屋根からこちらを狙っている者もいる。 (……、)  土御門は敵の位置を確かめながら、ゆっくりと両手を上げた。  唇を動かし、言葉を紡《つむ》ぐ。 「降参だ。……煮るなり焼くなり好きにしろ」  ただし、と彼は付け加えて、 「お前|達《たち》にやれるものならな」  土御門|元春《もとはる》がそう言った途端、彼に銃口を突き付けていた駆動鎧《パワードスーツ》に変化が起きた。  ガクン、と。  生身の人間よりも滑《なめ》らかに動いていた駆動鎧《パワードスーツ》が、唐突に固まったのだ。彼らは慌てて挙動のチェックに移るが、まるで歯車が詰まったようにギチギチと音を立てるだけだ。指先も動かないようで、銃声が聞こえる事もない。 「知りたいか」  土御門《つちみかど》がゆっくりと近づいていくと、駆動鎧《パワードスーツ》が伝わってきた。  強力な兵器であっても、それを操っているのは同じ人間なのだ。 「そいつには新型の駆動補助装置が搭載されてる。砂漠だろうが南極だろうが、機械の方が勝手に環境を調べて自動的にメンテナンスを行ってくれるものだ」  だがな、と彼は呟《つぶや》いて、 「場合によってはそいつが足枷《あしかせ》になる事もあるんだよ。例えば特定の条件が揃《そろ》ったルートを順番に辿《たど》っていくと、自動装置がエラーを起こしちまうようなヤツだ。簡単に言えば、『右へ曲がる』と『左へ曲がる』、相反する条件を一気に入力すると判断能力が鈍っちまうってセキュリティホールだな。HsPS-15はようやく迎撃《げいげき》兵器ショーに出せる程度の試作機だって事を忘れていないか?」  おまけに、このバージョンの駆動鎧《パワードスーツ》の機体と共有するように作られている。逆に言えば、一機の故障が全体に影響《えいきょう》を与える恐れもあるのだ。  土御門は動きを止めた駆動鎧《パワードスーツ》のすぐ近くまで接近し、その機械の腕から強引に対隔壁用ショットガンを奪い取ると、 「……駆動補助装置のエラーは全体に亘《わた》る。そこから出たければ脱出装置を手動設定に変えてから実行するしかないぞ。色々面倒な作業が必要だから、最低でも一〇分はかかるな」  戦車の砲身を切り詰めたような大型ショットガンを肩で担《かつ》ぎながら、言う。  駆動鎧《パワードスーツ》の中に人っている連中は、土御門の言葉を呆然《ぼうぜん》と聞いているようだった。自分達ですら知らなかった機体の問題を、何故《なぜ》目の前の男が知っているのか、想像もつかないらしい。  対して、土御門は手近な駆動鎧《パワードスーツ》の装甲を拳《こぶし》叩《たた》き、くだらなさそうに言った。 「出るなら急げよ。攻撃《こうげき》してこないって分かったら、アビニョンの暴徒達が一斉に飛びかかってくるぞ」  その言葉と共に駆動鎧《パワードスーツ》っているらしい。それを目にしながら、土御門は思案する。 (さて……)  駆動鎧《パワードスーツ》の機能を一時的に奪う事に成功したが、兵隊そのものは死んでいない。  ここからが本番だな、と土御門は思った。  とりあえず、彼らが脱出装置を復旧させて外へ出てくるまでは動きを封じられる。 戦闘《せんとう》状態を脱したのだから、話し合いも可能となるだろう。 (まずはオレが学園都市のエージェントとして動いている事から説明するか。いや、今回は上層部の意図とは外れて動いていたな。まったく、こじらせずに話を進められると良いんだが)  どういう風に『交渉』を行っていくか思案していた土御門《つちみかど》だったが、彼は途中で考えを切って、唐突に顔を上げた。  爆音が聞こえる。  土御門の目には、青い大空を悠々と舞う漆黒《しっこく》の爆撃機《ばくげきき》があった。  一〇〇メートルクラスの機体は一つだけではない。一〇機以上の爆撃機が大ぎく弧を描く形でアビニョンの上空をぐるりと回っている。  その特徴的なシルエットを見て、土御門は思わず歯噛《はが》みした。 (学園都市製のHsB-02。……超音速ステルス爆撃機か!?)  土御門や上条《かみじょう》がアビニョンへやってくる際に利用した、時速七〇〇〇キロオーバーを叩《たた》き出す超音速旅客機。あれと同じ技術を使った爆撃機だ。その圧倒的な速度は、ただ真《ま》っ直《す》ぐ飛ぶだけで追尾ミサイルを振り切れるとまで言われている。  冷静になれば、一つだけ疑問があったのだ。  このアビニョンにいる大量の駆動鎧達《パワードスーツたち》は、一体どこからやってきたのか、という疑問が。  その答えがこれだ。  学園都市から爆撃機に積み込まれた駆動鎧《パワードスーツ》を一時間程度でフランスまで運び、上空からパラシュートを使ってアビニョン近郊へと一斉投下する。あまりにも強引な力技が、学園都市の精巧なテクノロジーによって実現されてしまったのだ。  当然、HsB-02が積んでいるのはそれだけではない。本来の『爆撃』のためのものもあるはずだ。 (くそ……)  土御門は上空を睨《にら》みつけながら、思う。 (先に駆動鎧《パワードスーツ》を投下したのは、このアビニョンにC文書がある事を確認するため。それを行ったら、後は爆撃機を使って一気に教皇庁宮殿ごと吹き飛ばすつもりだったのか!?)  大雑把《おおざっぱ》で分かりやすい作戦ではあるが、『神の右席』の左方のテッラが持っていた特殊な術式の効力を考えると、確実な成果を生むとは考えにくい。  ガン! と土御門は手近な駆動鎧《パワードスーツ》の装甲を叩いた。 「おい! アビニョンの住民の避難《ひなん》状況はどうなっている!? 爆撃はいつ決行される!? 最新型のHsB-02って事は、まさかここで『あれ』を使う気か!!」  叫びながら、彼は自分の思考に焦《あせ》りが混ざるのを感じる。 (何を考えている、アレイスター。他《ほか》の連中ならともかく、お前は魔術《まじゅつ》の世界についても知っているだろうに。普通の軍事行動で全《すべ》て丸く収まるなら、『|必要悪の教会《ネセサリウス》』のような組織は生まれない。C文書を確実に抹消《まっしょう》するには、この程度じゃ足りないって事を掴《つか》み切れていなかったのか)  それとも、と土御門《つちみかど》は考え直す。 (……まさか、まだ隠し玉があるのか) [#ここから3字下げ]   5 [#ここで字下げ終わり]  アビニョン上空九〇〇〇メートル。  一一機の超音速ステルス爆撃機《ばくげきき》HsB-02の一つに、杖《つえ》をついた『超能力者《レベル5》』は乗り込んでいた。本来なら大量の爆弾を積み込んでいるはずの広大なスペースには、『超能力者《レベル5》』と、数名のメンテナンス要員しか存在しない。  機内に取り付けられたスピーカーから甲高い警告ベルと、雑音混じりの連絡が飛んだ。それを聞いたメンテナンス要員の一人が、『超能力者《レベル5》』に顔を向ける。 「作戦行動Aの目標を達成! このまま作戦行動Bへ移行します。作戦行動Cが始まればこの隔壁が開きます。パラシュートの準備を!!」 「必要ねェよ」  メンテナンス要員の言葉に、その『超能力者《レベル5》』は億劫《おっくう》そうに答えた。 『超能力者《レベル5》』はゆったりと杖をついたまま、機体の壁に取り付けられた薄型のモニタを眺めて (それにしても、面倒臭ェな。こっちはこっちで忙しいっつーのに、学園都市の外でも勝手にドンパチ始めやがって。ったく、つまンねェ事はさっさと済ませて『本題』に戻るとしますかねェ)  上空から捉《とら》えたアビニョンは、古い外壁にぐるりと囲まれた小さな街だった。壁によって敷地《しきち》が限られているためか、その内部は背の高い建物がごちゃごちゃと詰め込まれているような印象がある。  それを見て、『超能力者《レベル5》』は笑った。 「ハハッ、まるで学園都市のミニチュアだな」 「は?」 「何でもねェよ、しかし便利な世の印になったモンだ。学園都市からフランスまで一時間程度で飛ンでいけるとはなァ」 「ふ、不便な所もありますが」  メンテナンス要員は頭の中で言葉を選びながら、「超能力者《レベル5》』との会話に応じる。 「超音速飛行時には空気|摩擦《まさつ》によって、機体の表面温度が跳ね上がります、最高速度を出した場合一〇〇〇度近くにまでなりますから、機体全域に液状冷却剤を通すパイプを巡らせる必要があるんです」 「液体酸素に液体水素か」 「ええ。低凝固点冷却剤のパイプをこれらのタンク内に通して冷却作用を増強させています。この液体酸素や水素はスペースシャトルの推進剤としても使われ、本機の燃料の一つに採用されているのですが……つまり、燃料を消費すればするほど冷却効果も失われてしまう訳です」 「それでUターンはしねェで帰りはロンドンへ寄るって話になってンのか。よくもまァ爆撃機《ばくげきき》の補給を受けさせる事に許可を出したモンだ。そもそも日本国は爆撃機の所有を許可されてねェってのによ」 『超能力者《レベル5》』が呆《あき》れたように言った時、再び機内のスピーカーが警告ベルを鳴らした。  アナウンスを聞いて、メンテナンス要員が声を張り上げる。 「作戦行動B、始まります!!」  声と共に、辺りを飛んでいた爆撃機の内の四機が、周回コースから外れた。  ゆっくりと円の半径を広げていくように、旋回しながら一五キロほど遠ざかる。  そこから機首を曲げ、今度は一気に加速する。  四機で正方形を描くような軌道だ。  爆撃機の下部には、『超能力者《レベル5》』が乗っているものとは異なるパーツがついていた。  機体の全長の半分ほどの長さの、漆黒《しっこく》のブレードだ。  警棒のように御長展開したブレードの表面は電気収縮できるように作られており、一〇〇分の一ミリ単位で凹凸や模様を制御する事も可能だった。  その長大かつ繊細《せんさい》な大型ブレードは超音速爆撃機の加速力に振り回され、七〇〇〇キロオーバーで切り裂いていく。  これだけでも、下向きに発生する大気の刃は絶大な破壊力《はかいりょく》を秘める。  さらに、ここで少量の砂鉄を大気の刃に混ぜた場合どうなるか。  その答えは、すぐに提示される。  ゴバッ!! と。  四機の爆撃機によって、大地がアビニョンの街を取り囲むように正方形に切り裂かれた。  ブレード側面から散布された砂.鉄は、わずか数グラム。  その金属粉末は時速一万キロオーバーという絶大な速度を得た結果、液体を通り越して気体となった。摂氏《せっし》八〇〇〇度を超す気体状のブレードは、上空数千メートルという距離《きょり》も構わず、オレンジ色の輝《かがや》きと共に地球を切断する。  ガグン!! と『超能力者《レベル5》』の乗る爆撃機が揺らいだ。  友軍の超音速爆撃機が通過した事で大気がかき乱されたのだ。 「……ッ」  手近な壁に手をつきながらも、『超能力者《レベル5》』はモニタから目を離《はな》さない。  まず最初にあったのは、幅二〇メートル、深さ一〇メートル以上の溝だった。  直後に、その溝はオレンジ色に溶けて崩れていく。地質そのものがマグマのように煮えたぎっているのだ。あっという間に、アビニョンの旧市街が溶岩の川によって隔離《かくり》されてしまう。電気や水道はもちろん、街の近くを通っているローヌ川の流れすら強引に断ち切られ、街の外周部では早くも氾濫《はんらん》が起こり始めている。  これで、アビニョン旧市街にいる人間は完全に閉じ込められた事になった。  アビニョンの外壁の外にも街並みはある。溶岩の川となった地域は事前に駆動鎧《パワードスーツ》を強制退去させたという話だったが、それで感謝をする者など一人もいないだろう。 (ハッ。わずか三キログラムの砂鉄があれば、ものの一時間でユーラシア大陸をぶった斬《ぎ》れる『地殻破断《アースブレード》』か。学園都市も面白ェモンを作りやがる)  本来、爆撃機《ばくげきき》は複数の戦闘機《せんとうき》に護衛してもらうものである。  大型の爆撃機は小柄な戦闘機と違って、急旋回などを行う事はできない。そんな事をすれば即座に失速するし、下手をすれば慣、性の力に負けて機体が空中分解してしまう。つまり敵側にロックされた場合、ミサイルを避《さ》ける術《すベ》がないのだ。チャフやフレアなどである程度ロックをごまかす事もできるが、それも完壁《かんぺき》ではない。従って、爆撃機の周囲に戦闘機を配置し、敵側にロックされないように協力してもらうしかないのだ。  ところが、この超音速爆撃機Hs-B02にその法則は通じない。  直進しかできないのなら、直進するだけでミサイルを振り切れる機体を作る。  時速七〇〇〇キロ超という圧倒的な速度がそれを実現する。戦闘機から放たれる空対空ミサイルはもちろん、事前に爆撃ポイントで待ち構えている地対空ミサイルにしても、ロックオンされた直後にはすでに爆撃を完遂《かんすい》し、ミサイルの射程外へと逃げ切っている寸法だ。  従来の空中戦の法則を力技でねじ伏せる、強攻高速爆撃戦術。  これに学園都市製の高性能ステルス機能が加われば、HsB-02の攻撃を未然に防ぐ事はほぼ不可能になる。 「作戦行動領域の隔離を確認!!」  機内でメンテナンス要員が大声を出す。 『地殻破断《アースブレード》』を放った爆撃機は、たっぷり二〇キロ以上の距離を取って減速していく。その間にブレード表面の『模様』を制御したのか、『下向きの烈風』は全く吹いていない。 「続いて、作戦目標を含む作戦領域全域の空爆に移ります!!」  極めて大雑把《おおざっぱ》な攻撃に思える『地殻破断《アースブレード》』だが、ブレード表面の『模様』を電気的に操る事によって、その爆撃は直線のみならず、曲線、点攻撃なども可能で、ジグソーパズルのピースを切り取るように繊細《せんさい》な破壊《はかい》を可能とする。その気になれば、一機の爆撃機で複数のラインを同時に描く事もできるらしい。 「当|爆撃《ばくげき》に使う八機の飛行ルートを確保するため、本機のコースも変更します。不意の衝撃《しょうげき》に備えてください!」  次の攻撃対象はアビニョン旧市街内部。  標的は『教皇庁宮殿』という建物一つではなく、旧市街という一区画|全《すべ》てだ。あの街には先に降下した駆動鎧《パワードスーツ》の発信機を装備していて、爆撃機はその信号のみを避《さ》ける形で徹底的《てっていてき》にアビニョンを焼き払い、溶岩の海へ変える予定だ。  作戦では駆動鎧《パワードスーツ》』を使って焼き払い、パイロットは地元の人間のふりをしてすぐ近くの地中海沿岸へ移動し、そこに待機している潜水艦《せんすいかん》を使ってフランスから離《はな》れる事になっている。駆動鎧《パワードスーツ》を着たままの長距離《ちょうきょり》移動に流石《さすが》に目立ちすぎるので、回収できない装備は現地で焼き捨ててしまうのだ。  ただ、この作戦通りに進むと地上に降りた部隊は溶岩の海を自力で越えなければならない。その辺りも、おそらく何らかの装備を持たされているのだろう。ちょうど都合良く街は溶岩だらけになる事だし、そのせいで多少は上昇気流が生まれるだろうから、タンポポの綿毛の理論を応用した携帯装備でも使って遊覧飛行をするつもりかもしれない。 「……、」  モニタで確認する限り、アビニョンの旧市街には今も逃げ遅れた人がかなりいる。運良く部隊の人間の側《そば》にいる者は助かるだろうが、その大部分は摂氏《せっし》八〇〇〇度のブレードで焼き払われるはずだ。 「変更だ」 「は?」 「狙《ねら》いは教県庁宮殿だろ。先にそっちを集中攻撃しろ。それでも成果が出ねェよォなら俺《おれ》が落ちる。その後に俺からも連絡がなくなったら、その時は予定通り旧市街金体を爆撃しろ」 「いえ、しかし……超能力者《レベル5》投下作戦は、作戦行動Cに分類されます。通常なら作戦行動Bで敵勢力の掃討は終わるという計算ですので───」 「変更だ」  一言だけ、『超能力者《レベル5》』は繰《く》り返した。  メンテナンス要員の背筋が強張《こわば》る。『超能力者《レベル5》』が何故《なぜ》爆撃機に搭載されているのか、その理由を思い出したのだろう。  この『超能力者《レベル5》』は爆弾だ。  原爆や水爆と同じ、大型爆撃機に積み込んで作戦行動領域に投下する爆弾なのだ。  メンテナンス要員は手元にあった無線機を掴《つか》むと、どこかと連絡を取り始めた。作戦を仕切っている上層部と掛け合っているようで、何度も何度も会話の応酬《おうしゅう》を繰り返したのち、メンテナンス要員は無線機を綴いて静かに『超能力者《レベル5》』を見た。 「……し、申請は受理されました。作戦行動Bの予定を変更し、教皇庁宮殿への攻撃に集中します」  堅物の上層部が何故《なぜ》こんな柔軟な対応をしたのか不思議でならないという顔だった。  対して、『超能力者《レベル5》』は唇を吊《つ》り上げて笑う。 「それで良い」 「し、しかし、一体どうして……?」  メンテナンス要員が尋ねると、『超能力者《レベル5》』はつまらなさそうに舌打ちした。  モニタに移っているのは隔離《かくり》されたアビニョンの街と、米粒のように見える逃げ惑う人々だ。 「オマエにゃみンな同じに見えるかもしれねェが、一口に悪っつっても種類や強弱ってのが存在する」  隔壁を開くための手順を踏《ふ》んでいるのか、機内のあちこちから電子音が鳴り響《ひび》く。  その音を聞きながら、『超能力者《レベル5》』はメンテナンス要員に向かってこう言った。 「一流の悪党ってのはな、カタギの命は狙《ねら》わねェンだよ」 [#ここから3字下げ]   6 [#ここで字下げ終わり]  焼けた鉄板に冷たい水を振りかけるような音を何百倍にも増幅させたような轟音《ごうおん》が、教皇庁宮殿に響き渡った。  どうやら建物の外で何かが起きたらしいが、上条《かみじょう》もテッラも、外へ視線を向ける事はない。  上条は右拳《みぎこぶし》を構えながら、テッラの顔を睨《にら》みつける。  お互いの距離《きょり》は七メートル前後。  そこはすでに、テッラの持つ小麦粉のギロチンの射程圏内だ。加えて、彼には『優先』の特殊効果がある。  床の状態は悪い。テッラが崩した石壁の破片が散乱しているし、倒された駆動鎧《パワードスーツ》が持っていたらしき、円筒状の弾丸がいくつも転がっている。 「最後に尋ねるけどよ、大人しくC文書を渡すつもりはねえんだな」 「ええ。遠慮《えんりょ》なさらず、存分に玉砕してください」  その言葉を聞いて、上条は前へ駆けた。  テッラはその動きに合わせて、右手の小麦粉の刃物を振るった。  上条は右手を前に突き出し、防御手段を取りながらさらに走るが、 「優先する。───大気を下位に、小麦粉を上位に」  ドァ!! という轟音と共に小麦粉のギロチンが一気に膨《ふく》らんだ。  幅三メートルほどの巨大な団扇《うちわ》となったギロチンが、莫大《ばくだい》な空気を巻き込んで上条の方へと突き飛ばされてくる。 「ッ!?」  上条《かみじょう》は反応できなかった。  彼と同時にテッラへ走っていた五和《いつわ》が、上条の腕を強引に掴《つか》む。五和が上条を引きずるように横へ跳んで避《さ》けた途端、硬さや鋭さを持たないはずの『ただの空気』が教皇庁宮殿の床や壁をメチャクチャに破壊《はかい》した。床に散らばっていた弾丸のいくつかが花火のように破裂する。衝撃波《しょうげきは》のような爆音に、上条の喉《のど》が詰まりそうになった。  五和は上条の腕から、そっと手を離《はな》す。  その仕草からは想像もつかない素早い動きで、五和は手にした槍《やり》を構え直し、テッラの喉元へ鉄杭《てつくい》のように勢い良く突き刺す。  ドッ!! という空気を引き裂く音が響《ひび》く。 「優先する。───刃を下位に、人肌を上位に」  テッラの一言で、五和の攻撃は皮膚《ひふ》に弾《はじ》かれる。  金属の震《ふる》える、ギィン!! という音だけが教皇庁宮殿にこだました。  岩の塊を槍で突いたように、五和の手がビリビリとした痛みに包まれる。  しかし五和の動きは止まらない。  彼女は槍を突き崩した体勢のまま、足元にあった小石を蹴《け》り上げ、テッラの目を狙《ねら》って鋭く放つ。  テッラは首を振るどころか、まぶたも閉じなかった。  無造作に右腕を振るう。  横薙《よこな》ぎの一撃が、小石と五和、そしてさらに別の角度から突っ込もうとしていた上条をも巻き込んで、一気に遠くへと押し返す。  ゴッ!! という鈍い音と共に、上条と五和が床の上へ投げ出された。 「痛……ッ!?」  起き上がろうとした五和が、顔をしかめた。  倒れた所には、テッラが崩した石の壁の残骸《ざんがい》がたくさん転がっていた。その上へ倒れ込んでしまったため、足首にダメージを負ってしまったのだ。  そしてそれを、左方のテッラは見逃さなかった。 「優先する。───人肉を下位に、小麦粉を上位に」  ギロチンが飛んだ。  足をやられて動けない五和は、とっさに槍を構える。  そこへ上条が横から割り込んだ。  右手をかざし、テッラの攻撃を四方八方へと吹き飛ばす。  轟《ごう》!! という音が響く。  さらにテッラが右腕を振る溢うとすると、五和は上条の体を横へ突き飛ばし、痛む足を押して自分も反対側へと跳んでいく。  その中央を、テッラのギロチンが突き抜けた。 「おや勇ましい」  テッラは苦痛に耐える五和《いつわ》を眺め、小さく笑っていた。 「しかしもう限界でしょう。足を引っ張る……とはまさに言葉通りですねー」  その言葉に上条《かみじょう》はカッとしかけたが、 「……確かに」  五和は小さく呟《つぶや》いた。  しかし、その口元には笑みがある。 「でも、ようやくあなたはボロを出してくれました。決定的なボロを」 「何の事でしょう?」 「あの、ツチミカドさんが言いかけていた事。あなたが得意とする優先術式『光の処刑』の弱点。今のあなたの動きには、確かに不自然な所がありましたから……」  へえ、とテッラは面白そうに相槌《あいづち》を打った。  五和はゆっくりと槍《やり》の穂先《ほさき》をテッラの方へ突き付けながら、 「天草式十字凄教《あまくさしきじゅうじせいきょう》は呪文《じゅもん》や魔法陣《まほうじん》などを用いず、生活用品や習慣の中に残る魔術的《まじゅつてき》記号を組み合わせて術式を形成しますから。そういった記号探しは得意なんですよ」 「なるほど。それは困りました」  感情のこもっていない声でテッラは言った。 「しかし、気づいた所であなたにはそれを活用する時間はありませんけどねー?」  言いながら、テッラは右手を頭上へ上げる。  そこにあるギロチンがネジのように尖《とが》り、高い天井《てんじょう》へと突き刺さる。 「優先する。───天井を下位に、小麦粉を上位に」  テッラの手が蛍光灯の紐《ひも》を引くように動いた途端に、それはきた。  ぐいっと。  古いお城の罠《わな》のように、突然フロアの天井が落ちてきたのだ。  天井を支える柱は、不自然なほど滑《なめ》らかに床の中へ沈んでいく。 「ッ!!」  五和は慌てて槍を垂直に構える。  落ちてきた天井と床の間に槍が挟まり、かろうじて圧殺を免れる。  しかし、そのせいで五和の武器は奪われた。  そこへ、  テッラのギロチンが容赦《ようしゃ》なく襲《おそ》いかかる。  ドウ!! という轟音《ごうおん》が炸裂《さくれつ》した。  横薙《よこな》ぎに飛んだギロチンは丸腰の五和《いつわ》の胴体へ直撃《ちょくげき》した。彼女の体がくの字に折れ山がり、鈍い音を立て、衝撃《しょうげき》を抑えきれずにその小さな体が後方へ跳ぶ。二回、三回と床の上をバウンドし、数メートルもその体が転がっていくと、ようやく勢いを失って動きを止めた。  ぐったりとした五和は、起き上がらない。  手足を投げ出したままだ。その胸がゆっくりと上下している事からまだ死んではいないようだが、意識が目覚めそうな様子もない。 (くそ……)  上条《かみじょう》は奥歯を噛《か》み締《し》めて、 「五和ッ!!」 「ま、こんな所でしょうかねー。ただの魔術師《まじゅつし》が『神の右席』に太刀打《たちう》ちできると思っている事が、すでに間違いという訳です」  テッラがうそぶいている間に、落ちてきた天井《てんじょう》は再びゆっくりと元の高さへ戻っていく。圧縮されていた柱も、今まで通りの長さになっていく。  圧迫から免れた五和の槍《やり》が、カランと音を立てて床に転がった。 「テメェ……」  上条は右拳《みぎこぶし》へ、ゆっくりと、ゆっくりと、力を加えていく。  しかし、彼の表情を見ても、テッラの余裕は崩れない。 「おやおや。勝手に怒ってもらっても悶りますねー。今は戦闘中《せんとうちゅう》ですよ。まさか私には一発も反撃しないで殴《なぐ》られ続けろとか言うつもりじゃありませんよねえ?」 「……、」 「というか、こちらとしてもがっかりですよ。|幻想殺し《イマジンブレイカー》と言うからには多少は苦戦すると思っていたのですが、まさかここまで未完成とはねー。あれが本来の性能が回復していれば、少なくとも今の攻撃からそちらの魔術師を庇《かば》うぐらいの事はできたはずなのに」  何だと? と上条は眉をひそめた。  |幻想殺し《イマジンブレイカー》───その本来の性能。  思わず自分の右手に視線をやってしまう上条を見て、テッラはうっすらとした笑みを浮かべた。 「おや。もしかして、知らない?」 「ッ」 「くくっ、そんな訳がありませんよねー? 普通ならば知っていなければならない。だとすると……んン? もしかして知っていたはずの事を覚えていないとか[#「知っていたはずの事を覚えていないとか」に傍点]?」 「テメエ!!」 「まさか図星ですか。おやおや、これは楽しみな研究材料を一つ見つけてしまいましたかねぇ!!」 「……ッ!!」  ここで怒るのは筋違いかもしれない。  しかし、その言葉は記憶喪失《きおくそうしつ》になった上条《かみじょう》にとって、心の奥を抉《えぐ》り取る一言だ。 「ハハッ!!」  ぐらぐらとした足取りで何とか立ち上がる上条を見て、テッラは大声で笑い飛ばした。 「そうかそうかそうですか! 確かそういう報告を受けた覚えはなかったんですが……もしかしてー、隠していたとか? 何のために? そちらでのびている魔術師《まじゅつし》にはちゃんと話したんですか? どうして記憶を失ったのか、そこから調査をしてみるのも面白いかもしれませんねー?」 (ちくしょうッ!!)  怒りが上条を支配する。  上条は自分が記憶を失った事を、誰《だれ》にも明かさないと決めていた。記憶を失って以後、初めて出会った白い少女のために。それが彼なりのルールだった。守らなくてはならないものなのだ。そのルールがこんな形で破られようとされている事実に、頭がおかしくなりそうだった。 「良いんじゃないですか」  左方のテッラが笑いながら、訳の分からない事を言う。 「どうせここで死ぬんですし、心配は全《すべ》て捨てましょうよ。何を憂《うれ》いでいるかは知りませんが、パーっと散らせてあげますから」  ゆったりとした動作で小麦粉のギロチンを構えるテッラに、上条は顎《あご》が砕けるほどの力で奥歯を噛《か》み締《し》める。 (……あの刃物の破壊力《はかいりょく》そのものは致命的なものじゃない)  上条はテッラの周囲に渦巻く白い粉末を睨《にら》みつけながら、思う。 (問題なのは例の『優先』……。攻撃にも防御にも使えるあの力の弱点を見つけられれば、本当にそんなものがあれば、それでテッラを追い詰められる!!)  土御門《つちみかど》も五和《いつわ》も、それが『ある』と断言していた。  あるいは左方のテッラに対する言葉の応酬《おうしゅう》、もっと言えば単なるハッタリだった可能性もあるが、 (何かある)  上条はテッラとの間合いを測りながら、 (考えてみれば、確かにテッラの攻撃は何かがおかしかった。嬉《うれ》しい誤算だったからそのまま深く考えないで捨てておいた事。そう、あれは) 「おや、そちらからは来ないんですか」  テッラは小麦粉のギロチンを軽く振りながら、嘲《あざけ》るように言った。 「それなら待つのも面倒ですし、こちらから行きましょうか、ね!!」  言葉と共に、白い刃物が放たれた。  それを目《ま》の当たりにした上条当麻《かみじょうとうま》は───。 [#ここから3字下げ]   7 [#ここで字下げ終わり]  轟《ごう》!! と勢い良く襲《おそ》いかかってきた小麦粉の刃物に、上条は右手を合わせなかった。  顔面に迫る一撃《いちげき》を、首を振って避《さ》ける。  そうしながら、床に倒れ込むような格好で、崩れた外壁の破片───弁当箱ぐらいの大きさの石の塊を手に取った。  上条は起き上がりざまに、カウンターのようにテッラに向けて投げつける。 「優先する。───石材を下位に、人肌を上位に」  テッラは歌うように呟《つぶや》いた。  石の塊はテッラの額に激突したが、テッラの表情は少しも変わらない。  そのタイミングに合わせ、上条はズボンのポケットに手を突っ込んだ。テッラの目が険しくなる。上条は無視してポケットの中にある物をテッラ目がけてさらに投擲《とうてき》した。  小麦粉のギロチンが唸《うな》る。  しかし、その先端が引き裂いた物を見て、テッラは眉《まゆ》をひそめた。  それはシンプルな財布だった。  武器としての効果が一切ない合成革を投げつけた上条は、テッラの反応を見て告げる。 「どうしてだろうな」  切り裂くような一言だった。 「五和《いつわ》の槍《やり》や土御門《つちみかど》の魔術《まじゅつ》でも簡単に弾《はじ》けたくせに、どうしてただの財布を『優先』で防がなかったんだろうな」 「……ッ!?」  テッラは上条の口を黙《だま》らせようとするように、小麦粉のギロチンを放った。  それを右手で吹き飛ばしながら、上条はさらに告げる。 「考えてみりゃおかしかったんだ」  ギロチンの残滓《ざんし》である粉末を引き裂くように、上条は前へ出る。 「あの白い刃の直撃をくらって、俺《おれ》や五和が生きているっていう事がな。テメェに手加減する義理はねぇし、敗者を見逃してくれるような性格をしてるとも思えない。となれば話は簡単だ。あの刃で俺|達《たち》を切りつけた時、テメェは敢《あ》えて俺達を殺さなかったんじゃない。どうやっても殺せなかったんだ[#「どうやっても殺せなかったんだ」に傍点]」  小麦粉の刃物そのものの威力だけでは人間一人も殺せない。その威力を増幅させているのは、やはり『優先』の術式をギロチンに使っているからだ。  だとすると、 「テメェの『優先』は融通《ゆうずう》が利《き》かないんだろ。刃の威力が軽減されたのは、決まってテメェが俺達《おれたち》の攻撃《こうげき》を受け止めた直後の一撃だった。つまりテメェの『優先』は一度に複数の対象に向かっては扱えない[#「一度に複数の対象に向かっては扱えない」に傍点]。一つの『優先』から別の『優先』に切り替えるには、いちいち一つ一つ再設定していく必要がある。そんな所じゃねえのか」 「ふ」  テッラは笑った。  口元を緩《ゆる》めながら、彼は改めて巨大な刃を構える。 「……あなたの連れが言っていた『光の処刑』の『弱点』とは、そういう事ですか」  ともすれば謎《なぞ》が氷解した事に安堵《あんど》しているようにも聞こえる声だった。 「何分《なにぶん》、こいつは未調整でしてね。そちらの言葉には多少興味があったのですが」  微笑《ほほえ》む聖職者。 「しかし」  そこから一転して、テッラの言葉に嘲《あざけ》りが戻る。 「そんな事が分かったから何なのでしょうか。その程度で敗北するほど、左方のテッラは甘くはないんですがねえ!!」  ゴッ!! と風斬《かぜき》り音を立てて白い刃が飛んだ。  上条《かみじょう》を取ろうとするテッラを追いかける。 「テッラ!!」  叫ぶが、しかしテッラの方が早い。さらに小麦粉のギロチンを振るうと、真下に突き刺して一言。 「優先する。───床を下位に、小麦粉を上位に」  分厚い石の床が吹き飛び、その細かい破片が上条へと襲《おそ》いかかってくる。少年はそれを横っ飛びで避《さ》けながら、 「テメェがここまでやる理由は何だ! 俺達どころかアビニョンの人達まで巻き込みやがって!そうまでして実行する価値があんのかよ!?」 「ハッ、騒《さわ》ぎの半分以上はあなた達学園都市のせいだと思いますけどねーっ!?」  トントンと短く跳ぶように後ろへ下がるテッラは、手元に小麦粉の粉末を集めながら答える。 「十字教徒|全《すべ》ての最終目的『神聖の国』ですよ」 「なに?」 「おやまぁ、十字教文化圏の人間なら、信号の色よりポピュラーな情報なんですけどねー。まぁ、宗教色の薄《うす》い極東の島国出身らしいですし、仕方がありませんか」  軽い退屈や失望を込めてテッラは告げる。 「最後の審判ののちに神がその手で築いてくれるという王国ですよ。深い信仰によって研鑽《けんさん》した者のみが滞在を許される、永遠の救いという居場所。まことに素晴らしいとは思いませんか。私はそこを目指し、また同じように目指す方々のお手伝いをさせていただいていたんですがねー」  テッラが小麦粉のギロチンを放ち、上条《かみじょう》の右手がそれを吹き飛ばす。  床にあった筒状の弾丸のいくつかが風圧に負けて転がっていく。  粉末状に散っていく武器を眺めながら、テッラは言う。 「しかし、ふと思った訳です」  風も吹いていないのに、粉末は不気味なほど規則正しくテッラの手の中へと帰っていく。 「人はこの神聖の国で争いをしてしまわないのか、とね。たとえ神が完壁《かんぺき》な王国を築き上げ、そこに正しい信仰を積んだ世界中の人々を呼び集めたところで、人々という『集団』は神の期待に応《こた》えられるものなんでしようかねー」  上条はその言葉を聞きながら、前へ走る。  テッラはそれを止めようと、ギロチンを放つ。 「神は十字教を信じ抜いた者を『神聖の国』へ導くとあります。しかし、ローマ正教の中だけでも無数の派閥に分かれてしまっているんですよ。仮に神が『敬虔《けいけん》なローマ正教徒のみを選ぶ』という検索条件で救いを与えてしまった場合、この『神聖の国』へはローマ正教内にある派閥の問題がそのまま受け継がれてしまう事になってしまうんですねー」  テッラの右手に呼応し、小麦粉が蠢《うごめ》いて巨大な刃と化す。  白いギロチンと上条の拳《こぶし》が激突する。 「……神がどれだけ完壁な王国を築いた所で、その内部で人間が醜《みにく》く分裂してしまえば意味がありませんよねー。完壁なはずの王国に、今まで通りの争いが入り込んでしまっては元も子もないんですよ。それは『永遠の救い』とは言えません」  小麦粉のギロチンを右手で打ち消しながら、上条は聞く。  テッラの方も、これ以上下がっても意昧はないと知ったのか、前へ出る。 「救いが欲しいのですよ。そして救いを与えたい。神のプランが完壁であっても、我々人間が神の期待以下ならば全《すべ》てはご破算だ! だから私は知りたいのですよ!! 現状の人類は『神聖の国』で争いをしてしまわないのか。そしてもしもしてしまうのならば、審判の日までに皆をどのような方向に導き直せば良いのかをねぇ!!」  だからこその『神の右席』だ、とテッラは吼《ほ》えた。  同じメンバーである前方のヴェントとは違い、ローマ正教のために自らが選んだ道。そこまでやるからには、テッラはローマ正教を信じる人|達《たち》を本気で守ろうとしているのかもしれない。  だが、 「……救いって、その程度なのかよ」  思わず上条《かみじょう》は奥歯を噛《か》み締《し》めていた。  上条を動かすために自ら銃弾を受けた親船最中《おやふねもなか》の顔が浮かぶ。  共に戦ってくれた土御門《つちみかど》や五和《いつわ》の事を考える。 「ローマ正教が悪いって訳じゃねえ、オルソラとかアニェーゼを育てたローマ正教って教えがここまでズレてるとは思わない。テメェはそれ以前の問題だ。救いって言葉の意味が企く分かってねえんだよ、テメェは!」  アビニョンの街で暴れ回っていた暴徒|達《たち》。  それを制圧するためにやってきて、テッラに潰《つぶ》された駆動鎧《パワードスーツ》。 「テメェらの神様だって、こんな争いを生むために教えを広めていったって訳ねぇだろうが! ふざけやがって。勝手に救いの定義を決めつけて一人で満足するって言うなら」  ただ前を見据え、眼前にいる男を睨《にら》みつける。  そこに彼の敵がいた。 「そのふざけた幻想は、今すぐここでぶち壊《こわ》す!!」  上条は叫び、テッラの懐《ふところ》へと飛び込む。  テッラはさらに後ろへ下がりながら、右腕のギロチンを構える。このままではいつまで経っても追い着けない。  それでも上条は前へ進む。  床にあった駆動鎧《パワードスーツ》みつける。  そして、足元にあった物を前方へ思い切り蹴飛《けと》ばした。  五和が取り落とした海軍用船上槍《フリウリスピア》だ。  槍《やり》は簡単に蹴り上げられず、床の上を滑《すべ》って行った。駆動鎧《パワードスーツ》が落とした対隔壁用ショットガンの銃身に激突し、若干《じゃっかん》の軌道を曲げながらテッラの足首へ襲《おそ》いかかった。 「ッ!!」  テッラはギロチンを振り下ろし、五和の槍を強引に床へ叩《たた》きつける。  軽く足を上げれば避《さ》けられたであろう攻撃を、わざわざギロチンを使って防いだ。 (やっぱり)  上条はその間に、テッラの元へとさらに踏み込む。  今まで近づけなかった懐の深くへと、鋭く潜《もぐ》っていく。 (テッラ自身に元から強大な力があれば、「優先順位を入れ替える』なんて魔術《まじゅつ》は必要ない。入れ替えるまでもなく、トップに君臨しているヤツは最初から頂点にいるんだから。身体能力が高いって訳じゃねぇ)  つまり、と上条は結論付ける。  その右拳《みぎこぶし》に、ありったけの力を込めて。 (───左方のテッラは強くなんかない。安全地帯に隠れて強いように見えてるだけの野郎が、実際にこの足で戦場に立ってる俺《おれ》や五和《いつわ》より強いはずがねぇだろうが!!)  五和の槍《やり》を床へ叩《たた》きつけたテッラは、返す刀で『優先する』と呟《つぶや》いて小麦粉のギロチンを放ったが、上条《かみじょう》の右拳はその攻撃《こうげき》を破壊《はかい》した。 「遅っせぇんだよ!!」  彼の拳が、そのままテッラの顔面へと突き刺さる。  ゴン!! という鈍い音が炸裂《さくれつ》した。  固く握った拳から手首へ、直撃の鈍い反動が返ってくる。  全体重を右腕に掛けたため、上条の体が前のめりになる。 (捉《とら》えた!!)  という確信があった。  しかしテッラはまだ倒れない。 「キ、サマ……異教のクソ猿がァァああああああああああああああああああああッ!!」  怒声と共に『神の右席』に力が戻る。  靴底が床を滑《すべ》る、ザザッという音が響《ひび》いた。テッラは倒れている駆動鎧《パワードスーツ》の体に足を引っ掛けて転びそうになる。バランスを崩し、テッラの体は大きく仰《の》け反ったが、それでも彼の戦意は砕かれていない。テッラはその不安定な体勢のまま右手を振るうと、上条の腹に目がけて思い切り小麦粉のギロチンを突き出す。 「優先する。───人体を下位に、小麦粉を上位に!!」  放たれる刃は人間を切断できるように設定されたもの。  対する上条は、たった今テッラの顔面を殴《なぐ》り飛ばしたばかりだった。  その状態では右手を使ってギロチンを弾《はじ》くのは難しい。体をひねって避《さ》けるのも同様だ。 (───ッ!!)  上条はとっさに、足元にあった物を思い切り踏みつけた。  それは極端に銃身の太い対隔壁用ショットガン───テッラに潰《つぶ》された駆動鎧《パワードスーツ》が持っていたものだ。  瓦礫《がれき》の欠片《かけら》によって斜めに傾いていたショットガンは、上条の足に踏まれる事によってシーソーのように大きく動き、反動をつけた金属の塊が彼の前で直立する。 「甘いん。てすがねぇ!!」  だがテッラの表情は変わらない。  対隔壁用ショットガンは重たく、簡単には構えられない。仮に上条が巨大な銃器を掴《つか》んだとしても、この状態から両手で構え直してテッラを狙《ねら》って引き金を引くまでには、数秒の時間差が生じるのだ。起死回生の手は通じなかった。上条が必死で掴み取ろうとした対隔壁用ショットガンごと、テッラのギロチンは勢い良く上条《かみじょう》の腹へと突き刺さった。  ズドッ!! という凄《すさ》まじい音が教皇庁宮殿に嶋り響《ひび》く。  赤い血が舞った。  くの字に折れ曲がった上条の口から、ぬめった液体がボタボタと垂れた。右手で防ぐ事もできず、体をひねって避《さ》ける事もできず、一直線に腹へ一撃《いちげき》を喰《く》らった彼の体から、静かに力が抜けていく。 「な……」  息を呑《の》む音。  ただし、それを発したのは上条ではなく、左方のテッラの口だ。  無理もない。 『優先』の魔術《まじゅつ》を使ってギロチンの威力を増強したのに、上条の胴体は真っ二つにならなかったのだから[#「上条の胴体は真っ二つにならなかったのだから」に傍点]。 「……、」  上条はニヤリと笑って、腹に突き刺さったギロチンを右手で握り締《し》めた。  それだけで、小麦粉の刃物は粉々に砕け散る。  左方のテッラは後ろへ下がろうとしたが、それより先に上条《かみじょう》み込んだ。  そこはもう、上条の拳《こぶし》の射程圏内だ。 「何だ、このふざけた結果は……。|幻想殺し《イマジンブレイカー》は右手にしか適用されないはず。何が起きた。異教のサルが、まさかすでにその力には───ッ!!」 「そんなもんじゃねえよ」  上条は右拳を固く握り締《し》め、 「今のは|幻想殺し《イマジンブレイカー》とは関係ねぇ」 「なら……ッ!?」  テッラは叫ぼうとするが、その前に上条が動いた。  驚愕《きょうがく》に彩《いろど》られた左方のテッラの顔面へ、まっすぐ狙《ねら》いを定める。 「答えると思うか」  ゴッ!! という鈍い音が響《ひび》いた。  今度こそ、テッラの体は床に投げ出された。 [#ここから3字下げ]   8 [#ここで字下げ終わり] 「ぐっ……」  上条はズキズキと痛む腹を押さえ、ふらつく足に力を入れて、かろうじてその場に踏みとどまる。  ギロチンを叩《たた》きつけられた腹は破れたりはしていないが、それでも青黒い痣《あざ》がかなり広範囲に広がっている。 (どうにか……助かった、か)  上条は衝撃《しょうげき》で歪《ゆが》んだ対隔壁用ショットガンや五和《いつわ》の槍《やり》などを眺めながらようやく安堵《あんど》の息を吐《は》く。  テッラが最後に放った小麦粉のギロチン……上条を狙って放たれたあの一撃は、当然ながら『上条の体よりもギロチンの威力を優先する』という魔術《まじゅつ》が込められていたはずだ。そのまま直撃すれば、上条の腹など簡単に突き破られていただろう。  それでも上条が生きているのは、直撃の寸前に上条が蹴《け》り上げた『駆動鎧《パワードスーツ》の対隔壁用ショットガン』のおかげだ。  確かにテッラの『優先』は強力だが、その優先条件は一種類の項目にしか適用されない。ある項目から別の項目へ『優先』を変更するには、その都度条件を設定し直す必要がある。  つまり、『上条《かみじょう》の体よりギロチンの威力を優先する』状況では、逆に言えば『上条の体以外の物には特に影響《えいきょう》しない』という事を意味してしまう。だから、『上条の体』と『ギロチン』の間に『別の物体』を挟んでしまえばギロチンは止まる。空気や財布など元々柔らかい物なら効果はないだろうが、ショットガンは金属製だ。  ギロチンの元々の威力は、直撃《ちょくげき》しても内臓を潰《つぶ》さないぐらいのものだ。ある程度の強度の物体を盾に使えば、あの一撃を防ぐ事は難しくなかったのだ。  ネックだったのはどこまでが『上条の体』として優先|魔術《まじゅつ》に適用されるか分からなかったという所だが……『上条の衣服』や『上条の荷物』はともかく、少なくとも他人の持ち物だった『駆動鎧《パワードスーツ》の対隔壁用ショットガン』は上条の体の一部として扱われなかったようだった。  その直前に上条が蹴飛《けと》ばした五和《いつわ》の槍《やり》にしても、ショットガンと同じで『他人の持ち物』だ。だからこそ、テッラは『槍ごと上条の胴体を真っ二つにする』という事はできなかったんだろう。もしも上条が普段《ふだん》から槍を持ち歩いていたら、そういう風に対処されていたはずだ。  あの槍があったから、上条はテッラの弱点に気づく事ができた。それがなければ、今頃《いまごろ》上条の体は切断されていただろう。 「───、」  上条は床に転がっているテッラを見た。  大量の小麦粉は刃の形状を保っていられず、彼の周辺に散らばっている。 (どうにか、これで終わったな……。五和は大丈夫《だいじょうぶ》か。土御門《つちみかど》の方は……まだ駆動鎧《パワードスーツ》と戦ってるかもしれない……)  上条は魔術としての効力を失い、風に流されていく小麦粉の粉末に目をやる。  痛みを堪《こら》えながら、それでも安堵《あんど》の息を吐《は》いた。  改めて、テッラの顔を見る。  床に転がったテッラの懐《ふところ》から、筒状の物が転がり出ていた。古い羊皮紙《ようひし》を丸めてまとめられたそれはDocument of Constantine───通称『C文書』と呼ばれる強大な霊装《れいそう》だ。  上条は屈《かが》み込み、それを右手で掴《つか》んだ。  いや、掴む前に崩れた。  上条の指先がC文書に触れた途端、まるで灰の伸びた煙草《タバコ》を灰皿の縁へ叩《たた》いたように、ポロッと羊皮紙が千切《ちぎ》れた。それは粉末状に形を失っていくと、緩《ゆる》やかな風に乗ってどこかへ飛ばされていく。  あまりにもあっけなかった。  今までの騒《さわ》ぎが逆にむなしくなってくるぐらいに。  上条は失われたC文書から意識を逸《そ》らし、今度は今まで戦っていた敵について考える。 (……テッラ、か)  上条《かみじょう》は気を失って倒れている男を見下ろす。  ここは学園都市ではない。勝負がついた後は警備員《アンチスキル》に任せるという訳にはいかない。再びテッラが目を覚ます前に確実に拘束し、しかるべき所へ預けるまでは油断できない。 (そういえば、土御門《つちみかど》のヤツは大丈夫《だいじょうぶ》なのか。あいつに連絡して、とりあえずイギリス清教の方と掛け合うかな。何となく、ここだと学園都市の影響《えいきょう》って少ないような気もするし……)  一応アビニョンへ強襲《きょうしゅう》してきた駆動鎧《パワードスーツ》も学園都市製なのだが、不思議と上条は彼らに相談しようとは考えなかった。第一印象が最悪すぎたからかもしれない。  上条は辺りを見回した。  少し離《はな》れた所に、五和《いつわ》が倒れていた。  近づいて、その華奢《きゃしゃ》な肩を掴《つか》んで揺さぶってみたが、起きる気配はなかった。ただ、その唇からは規則的な呼吸音が出ているし、胸はわずかに上下している。 「そうだ。こいつの槍《やり》……」  上条は自分が蹴飛《けと》ばした槍を拾いに行き、再び五和の元へ帰ってくる。  その物騒《ぶっそう》な刃物を、五和のすぐ横にそっと置いた。 「ありがとう五和。お前がここにいなかったら、多分|俺《おれ》は勝てなかったと思う」  目を瞑《つぶ》っている少女に向けて、上条は静かに言う。  彼女がテッラにやられたおかげで、上条とテッラの間で交わされた、記憶喪失《きおくそうしつ》関連の話は聞かれなかった……だろう。しかし、それを『良かった』とは喜べなかった。五和はそれを知らないまま、上条に協力して戦ってくれたのだから。 「───、」  心の中には、苦いものしかない。  しかし今は、それを振り切って上条は考える。 (とにかく土御門と話をしよう……)  携帯電話で土御門と連絡を取ろうと思ったが、ポケットを探っても携帯電話がない。辺りを見回すと、少し離《はな》れた所にそれらしき物が転がっていた。  しかし拾ってみると、液晶は砕けて何も見えなくなっているし、何かのパーツが引っ掛かっているのか折り畳む事もできない。  くそ、と吐《は》き捨てた上条は、背後からゴソリという物音を聞いた。 「ッ!!」  上条は慌てて振り返ったが、テッラは相変わらず床に倒れたままだ。ただ、腕の位置が若干《じゃっかん》変わっている。起き上がろうとして、力が出なかったらしい。 「はは。なるほど。確かに|幻想殺し《イマジンブレイカー》は我々とは相性が悪い。何でもかんでも無効化してくれて、まったく自分|達《たち》の努力を否定されているような気分ですよ」  床に転がったテッラは、忌々《いまいま》しげに上条を睨《にら》みつけながら、震《ふる》える唇をゆっくりと動かした。 「……尋ねないのですか」 「何を」 「|幻想殺し《イマジンブレイカー》について」  不意に出てきた言葉に、上条《かみじょう》の動きがわずかに止まった。  |幻想殺し《イマジンブレイカー》。  これまで当たり前のように使ってきて、大した疑問も持たなかったこの力。テッラはその力について何かを知っているという。となると、この力は科学サイドのものではなく、魔術《まじゅつ》サイドのものになるのだろうか。しかし、一〇万三〇〇〇冊の魔道書《まどうしょ》を暗記しているインデックスは、|幻想殺し《イマジンブレイカー》の正体を知っている感じではない。  上条は少しだけ考えて、 「知ってるのか」 「くっくっ」  左方のテッラは、上条の言葉を聞いて酷薄《こくはく》に笑った。 「そこで私に確認を取るという事は、どうやら本当に記憶《きおく》を失っているらしいですねー」 「……、」 「ふふ。その|幻想殺し《イマジンブレイカー》が、何故《なぜ》あなたの『右手』に備わっているのかを考えてみる事です。そこには大きな答えが隠されている。あらゆる魔術を問答無用で打ち消してしまうというその効力にも、意味があるんですがねー……」  テッラは悩む上条を見て楽しげに笑う。  彼は言う。 「簡単な事ですよ」  テッラの薄《うす》く息を吐《は》く音が、上条の耳にやけに大きく響《ひび》いた。  ゆっくりと、テッラの唇が動く。 「|幻想殺し《イマジンブレイカー》の正体は───」  上条はその言葉の続きを聞き取る事ができなかった。  ゴッ!! という莫大《ばくだい》な轟音《ごうおん》と共に。  左方のテッラの体がいきなり爆発したからだ。  いや、厳密にはテッラが吹き飛ばされる瞬間《しゅんかん》を上条は見ていなかった。  天井《てんじょう》を突き破って襲《おそ》いかかってきたオレンジ色の閃光《せんこう》が、テッラの真上に降り注いだ。直径三メートル程度の光の柱が床を貫いた途端、恐るべき爆風が教皇庁宮殿の室内に吹き荒れた。  上条の両足は一瞬で床から引き剥《は》がされ、そのまま綿埃《わたぼこり》のように何メートルも後方へ飛ばされていく。別の場所に倒れていた五和《いつわ》や駆動鎧《パワードスーツ》も、同じように爆風の煽《あお》りを受けてこちらへ転がってきた。 「ぐああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!?」  床に叩《たた》きつけられ、上条《かみじょう》は絶叫する。  その激痛とは別に、腕の辺りからジリジリと刺すような薄《うす》い痛みが走っていた。まるで火傷《やけど》した翌日のような感覚だった。そちらに目をやると、肌がわずかに赤く変色している。火傷しているのだ。 (な、何が……?)  朦朧《もうろう》とする頭を振って、上条は爆破地点に目をやった。  そこで彼の体は硬直した。  ついさっきまでテッラが倒れていた場所は、すでに溶岩の渦と化していた。石でできた床は何メートルにもわたってオレンジ色に輝《かがや》くドロドロした沼に変わっていて、大穴の空いた天井《てんじょう》の縁からも、やはり同じような物がドロッと垂れている。シュウシュウという水が蒸発するような音が耳についた。近づこうとするだけで、見えない壁のような熱風が肌に張り付いてくる。  窓の外に、何かが見えた。  青空に黒い染《し》みを作るようにゆっくりと旋回しているのは───複数の爆撃機《ばくげきき》だ。  爆弾を投下するための隔壁の代わりにあるのは、漆黒《しっこく》の金属製ブレード。何が起きたか分からないが、あれが何らかの攻撃を行ったのは明白だった。 「テッラ……」  あまりの熱気に近づく事もできないまま、上条は敵だった男の名前を呼んだ。  大空を舞う鋼鉄の翼《つばさ》が、再びこちらに狙《ねら》いを定めてくる。  十分な助走|距離《きょり》を使って加速した爆撃機が、凄《すさ》まじい速度で青空を突き抜ける。 「テッラァァァああああああああああああああああああああああああああああッ!!」  叫び声はかき消された。  複数の閃光《せんこう》の柱が天井を引き裂き、再度テッラの倒れていたポイントへ正確に突き刺さった。  その精度は爆撃というより狙撃《そげき》に近いかもしれない。オレンジ色の光が上条の視界を全《すべ》て奪っていく。何らかの余波を受けて上条の体が何度も何度も床を跳ねて転がっていった。  上条はそこで気絶した。  しかし、仮に気を失わなかったとしても、彼がテッラを見つける事はできなかっただろう。  倒れる上条の前方の一角からは壁も天井も消えていて、全て溶岩の海に変わっていた。同様に教皇庁宮殿の三分の一が失われていた。  ───そして、左方のテッラは死体すらも残さず消えた。 [#改丁] [#ここから3字下げ]  終 章 その解は次の謎へと Question.  その衝撃《しょうげき》で五和《いつわ》は目を覚ました。  ここは教皇庁宮殿だ。前に意識を失う直前は床の中央辺りで倒れた……と思っていたのだが、気がつけば壁の近くまで転がされていた。自分の持っていた槍《やり》も近くにある。  ダメージが残っているのか、全身が気だるく動かしづらい。  のろのろとした動きで槍を取る。  体が火照《ほて》っている。  そう思った五和だが、直後にその正体に気づいた。  前方。  十数メートル先にある石の壁や床、天井《てんじょう》などが高熱に溶かされ、ドロドロとしたオレンジ色の粘液に変わっていた。鉄板に水を垂らすようなシュウシュウという音が聞こえ、視界の大半が白っぽい蒸気に隠されてしまっている。 「な……に、が……?」  周囲を観察する。  少し離《はな》れた所に、動きを止めた駆動鎧《パワードスーツ》が倒れていた。その近くに、|幻想殺し《イマジンブレイカー》の少年が仰向けに倒れている。意識があるように思えなかった。近づいてみると、少年の肌には赤みが差していた。火照っているのではなく、軽度の火傷《やけど》を負っているらしい。  この程度なら痕《あと》は残らないだろう。  氷でもあれば良いのだが、手持ちにそういう持ち物はないし、氷に関する魔術《まじゅつ》も得意ではない。五和はポケットの中を探ると、そこからおしぼりを取り出して、上条の腕へと優しく押し当てた。傷は浅そうで、五和はホッと息を吐《は》く。 (左方のテッラは……?)  応急手当をしながら、五和はぼんやりと思う。 (C文書も……。この惨事は、テッラが行ったもの? それにしては、これまでとは随分《ずいぶん》と毛色の違う現象のような……)  自分|達《たち》は勝ったのか、負けたのか。  それすらも判別できない。  少し看た限りでは、|幻想殺し《イマジンブレイカー》の少年の傷は浅い。とりあえずは彼が目を覚ますのを待って、状況を説明してもらった方が良いだろう。そして必要なら、今からでもテッラの追撃に移らなくてはならない。 「……、」  テッラとの決着に最後まで関《かか》われなかった自分。  途中で気を失ってしまい、後の事を素人《しろうと》の少年に押し付けてしまった自分。  その無力さを、五和《いつわ》はそっと噛《か》み締《し》める。 (どうにかしないと……)  彼女はそう思う。  しかし、危機はそれだけの暇をいちいち用意してくれない。 「チッ。何だか面倒臭ェ事になってンなァ」  突然聞こえた声に、五和の全身へ緊張《きんちょう》が走る。  その声質そのものも禍々《まがまが》しかったが、何よりも彼女が驚《おどろ》いたのは、声が飛んできた方向だ。  五和は槍《やり》を構えつつも、信じられないものを見るような目でそちらへ振り返る。  前方。  高熱のせいでドロドロの溶岩と化している通路。  確かに、声はその真ん中から聞こえてきた。  立ち込める蒸気のせいで、人影の詳細は見えない。  ただ、そのシルエットを見るだけでも、人影はごく普通に、自然な挙動で立っているのが分かる。  おそらく数干度の溶岩の中に佇《たたず》んでいるにも拘《かかわ》らず。  立ち込める蒸気だけでも一〇〇度を超えているだろう、その中心部で。 「威力が高すぎるってのも考えモンだよなァ。っつか、大陸切断用のブレードを生身の人間に向けンのが間違ってンじゃねェのか。死体を確認する方の身にもなれっつーの。まァ、切断前後で暴動がプッツリ収まったンだから、少なくとも最低限の目標は達成できたンだろォけどよ」  相手はこちらの事など気にしていない。  顔を向けてもいない。  彼の言葉は、五和に向けられたものではない。おそらく無線か携帯電話でも使って、遠く離れた相手と会話しているのだろう。  それで良い、と五和は思う。  槍《やり》を持つ手から、異様な汗が噴き出ているのが分かる。  理由は分からない。しかしあの溶岩の真ん中に立っている人影は、別格だ。どう立ち向かうかとか、奇跡が起きれば勝てるかもしれないとか、そういう段階を軽く超えているのだ。譬《たと》えるなら、どうしようもなく巨大な鉄の塊に向かって細い槍を振るうような、そんな感覚しか得られない。  彼は言う。  刃物を持つ五和《いつわ》など視界にも入れないで。 「一応この辺を洗って死体を捜してはみるけどよ。 一○分|経《た》って何も見つからなけりゃ俺《おれ》は帰る。後はここら一帯が冷めてから髪の毛でも血痕《けっこん》でも見つけてDNA鑑定《かんてい》でもやってンだな。あァ? 機能停止した駆動鎧《パワードスーツ》の回収だァ? そンなモンは雑用係に押し付けちまえよ。フランスにも学園都市協力派の組織や機関ぐらいあるだろォがよ」  そこで会話は途切れた。  離《はな》れた相手との会話は終わったのだろうか。 「……、」  茂みに隠れて猛獣《もうじゅう》をやり過ごす草食動物のように、五和は息を止めていた。  相手は一度もこちらを見ていない。  それでも五和の全身を恐怖が包み込んでいた。  計り知れない。  槍《やり》を持つ手が震《ふる》えてきた五和を無視して、人影は背中を見せる。どうやら教皇庁宮殿の奥へ向かうつもりらしい。溶岩の広がる通路の先へと消えていく。  五和は追えなかった。  声をかける事もできなかった。  正体不明の人影が消えた後も、五和《いつわ》はしばらく緊張《きんちょう》で動けなかった。  処刑《ロンドン》塔の尋問室で、ステイル=マグヌスとアニェーゼ=サンクティスはリドヴィア=ロレンツェッティから話を聞いていた。同席しているビアージオ=ブゾーニは最後まで非協力的な態度を貫き通すつもりらしく、一言も口を動かそうとしなかった。 「十字教では、『神の子』の死後に『神』は人の前には現れませんが」  リドヴィアの声が、狭い尋問室に響《ひび》く。 「代わりに、その手足として動いている『天使』はかなりの頻度《ひんど》で人の前に出現します。かつては天使と悪魔《あくま》で大戦争を起こしたという話ですし、とある神学者は九つのグループに分ける必要性に迫られたぐらいですから、彼らの総数は結構なものかもしれませんが」 「それがどうかしたのかい」  ステイルが先を促すと、リドヴィアは頷《うなず》きもせずに先へ進める。 「『神の右席』は即物的な集団という訳ですから。人の前に現れない神は本当にいるのか。あるいは、神は天使のふりをしてこっそり人間と接触しているのではないか。そういう風に考え、『天使の中に紛れ込んだ何者か』の影を追っているのが、『神の右席』となります」  十字教以外の神話では、神が別のもの……人間と同等か、あるいは敢《あ》えて人間より下位のものに変化して地上へやってくる話は珍しくない。  その辺りの思想が混ざっているのか、とステイルは頭の片隅に留めておきつつ、 「……それが『神の右席』という名前とどう繋《つな》がる? 確か君の話だと、『神の右席』とは組織名であると同時に最終目標であるという事だけど」 「人間は神にはなれません」  リドヴィアは直接的には質問に答えず、話の続きを口に出した。 「そういう術があるらしい、という仮説ならばいくらかありますが、それが実践されたという報告は聞きませんので。ですが、その下位段階───つまり『天使』までなら、錬金術《れんきんじゅつ》など一部の学問で進化の実例が報告されています。……もちろん、こちらにしても極めて稀《まれ》ですが」  つまり、とリドヴィアは告げる。 「彼らは人間を縛《しば》り付ける『原罪』を消去した上で、『天使』となるための法を求めています。しかも、それはただの『天使』ではありませんので。『天使』という形を借りて地上へ顕現している者───すなわち『天使』の中に紛れ込んだ、真の『神』たる個体を見本として」  神の力を認めるものの、そこで終わるのではなく、その力をもぎ取ろうとする傲慢《ごうまん》な意志。  おまけに、『天使』に紛れ込んで『神』が降りてくるという話には、そもそもの根拠がない。  ステイルは唇を歪《ゆが》めて笑いながら、 「……立派な異端宗派だな」 「今の所、彼らは天使の中でも最大級の力を持ち、『|光を掲げる者《ルシフェル》』の対《つい》として生み出された個体『|神の如き者《ミカエル》』に狙《ねら》いを定めています」  リドヴィアの声は一定だ。 「『|光を掲げる者《ルシフェル》』は神の右側に座る事を認められた唯一の個体ですし。その『|光を掲げる者《ルシフェル》』を打ち破り、全《すべ》ての天使を束ねるトップとなった『|神の如き者《ミカエル》』も、かつての『|光を掲げる者《ルシフェル》』と同レベル以上の存在である───『神の右席』はそう考えているようですが」  右側。  十字教では、その位置は『対等』を意味する。実際に十字教初期の殉教者《じゅんきょうしゃ》である信者ステファノは『神の子』を敬う表現として、唯一神に対する『右』という言葉を使い、『神の子』が神と『対等』な存在であると示しているのだ。 『神の子』の場合は、三位一体《さんみいったい》の思想によって、『神』と「神の子』は対等に敬うべき存在である、という事から『右』という表現を使っているのだろう。  しかし、天使の場合はどうか? 『|光を掲げる者《ルシフェル》』は何故《なぜ》『右側』に座る事ができ、『|神の如き者《ミカエル》』はその『右側』に座った大天使を打ち破るほどの力を持っていたのか。本来、神が唯一無二の存在であり、世界で最も偉い頂点であるのならば、『対等』を意味する右側には誰《だれ》も座らせない。まして、神の道具や下僕という目的で作り出された天使などにその座を与える事など、普通なら考えにくい。  にも拘《かかわ》らず、その席に下位存在であるはずの『天使』を置くという事は、そこに何か特別な意味がある───とでも考えているのだろう。 「彼らは『神の右席』に座る事を目的とした集団です。そして『右席』を得た彼らは、その力をもって天使からさらに別の存在へと進化できる……そう信じているようです」  その名は、 「La persona superiore a Dio」  流れるように紡《つむ》がれた言葉を聞いて、ステイルとアニェーゼはそれぞれ眉《まゆ》をひそめた。  すなわち、 「───神上《かみじょう》、と。そう呼ぶらしいです」  バチカン、聖ピエトロ大聖堂に足音が響《ひび》く。  歩幅はあくまでも一定だった。ゆっくりと、ゆったりと。足音の主の精神を表しているように、そのリズムにはゆとりがある。  その足音が、不意にピタリと止まった。  足音の主の前に、人影が現れたからだ。 「テッラ」 「ああ。アックアですか……」  足音の主───左方のテッラは、目の前に現れた後方のアックアをジロリと睨《にら》みつけて短く言った。頭の中で考え事をしていて、会話のために中断するのが億劫《おっくう》だ、という感じだ。  教皇庁宮殿でテッラを襲《おそ》った超音速|爆撃《ばくげき》の威力は強大だったが、テッラにとって『一種類の同じ攻撃』は『優先』を使えばまとめて防ぐ事ができる。彼にとって恐ろしいのは、複数の攻撃が同時に襲いかかってくる事なのだ。 「その様子だと、C文書は失ったようだな」 「ええ」  アックアの言葉を、テッラは簡単に認めた。 「例の|幻想殺し《イマジンブレイカー》を使われましたので、回収は難しいでしょうねー」 「それにしては、随分《ずいぶん》と上機嫌に見えるのだが」 「はは。アックア、そちらにも話は行っているんじゃないですか」  テッラはうっすらと微笑《ほほえ》みながら言う。 「ロシア成教が、正式に我々と手を組む事に決定したと」  アックアは少しだけ黙《だま》っていた。  やがて、彼は口を開く。 「我々はローマ正教徒である。本来ならば他宗派からの協力にそれほどすがるのは感心しないのだがな」 「ふふ。あくまで利用するだけですよ。向こうもそう思っているでしょうし」  テッラの顔からは、余裕は消えていない。  彼はまだ、折れていない。 「今回のC文書の一件で、学園都市とイギリス清教は秘密裏に手を組んで行動しました。まあ、もちろん、双方ともにそれを認めようとはしないでしょうけど」 「しかし重要なのは、その事実を知ったロシア成教がどう思うか、か」 「すでに学園都市とイギリス清教との間にはある種のパイプが築かれています。そこへ新参者のロシア成教が協力を申し出た所で、甘い蜜《みつ》を吸えるとは限りません。この『戦争』において勝利者の利益を求めるロシア成教としては、科学サイドが勝ったところで自分|達《たち》は面白くない……そう思ってしまったんでしょうねぇ?」  現在の学園都市とローマ正教の戦力は拮抗《きっこう》している。  そこで重要なのはイギリス清教やロシア成教のような、第三勢力の動向だ。  可能ならばイギリス清教もロシア成教も『魔術《まじゅつ》サイド』の協力者として招き入れるのが望ましい。しかしイギリス清教は、すでに学園都市との間に繋《つな》がりを設けてしまっている。  そして、ローマ正教とイギリス清教は『法の書』やオルソラの件、大覇星祭《だいはせいさい》や『使徒十字《クローチェディピエトロ》』の件を鑑《かんが》みれば分かる通り、両陣営には深刻な溝が刻まれてしまっている。  従って、ここは敢《あ》えてイギリス清教の事は諦《あきら》める。  最悪の展開───イギリス清教とロシア成教の両方が科学サイドについてしまう事を避《さ》けるためには、何としてでもロシア成教の目をこちらへ引きつける必要があった。  そのためのC文書だ。  あの霊装《れいそう》を失ったのはマイナスだが、当初の目的は達成できた、という事になる。 「さて、これで『ローマ正教・ロシア成教』組と『学園都市・イギリス清教』組という構図が出来上がりましたねー。ま、学園都市とイギリス清教はそれぞれ違う世界《サイド》の組織ですし、必ずそこに綻《ほころ》びが生じると思いますけどねー。ロシアとの協力を得られれば、日本へ侵攻するための足掛かりは強固なものになります。喉元《のどもと》に刃を突き付けた状態……という所でしょうかねー。右方のフィアンマとも相談して、今後の兵の動かし方についても決めておいた方が良いかもしれません。本当はもう少し学園都市側の対応パターンを調べたり、|幻想殺し《イマジンブレイカー》の様子を見てみたかったのですが、まぁ良しとしましょう」 「そうか。しかしその前に、貴様に話がある」  アックアの声は厳しい。  テッラは気軽に言った。 「何ですか」 「なに、簡単な事だ。貴様にしか扱えない特殊術式『光の処刑』……その照準調整のために、ローマ近郊の子供|達《たち》や観光客を使っている[#「使っている」に傍点]という報告は真実か?」 「ええ、はい」  驚《おどろ》くほど簡単に、テッラはそれを認めた。  ただし、 「取り立てて騒《さわ》ぐような事なんですか、それ?」  左方のテッラは、一言で言い切った。  アックアの目が細くなる。 「……確か貴様は、世界全人類を平等に救うために行動しているのではなかったのか。人々を信仰によって『神聖の国』へ導いた後、人はそこで派閥の問題を継続しないかを知りたかったから動いているのではなかったのか」 「ええ、ですから」  何を馬鹿《ばか》な質問をしているんだという顔で、テッラは答える。 「確かに私は世界全人類を平等に救う気でいますが、そもそも異教徒は人間ではありません。アックア、あなたは書類をきちんとチェックしているのですか。私は対象がローマ正教徒でない事を入念に確認してから、照準調整用の『的』として採用していたつもりなのですが」 「……、」 「ああ、もしかしてスペイン経由で『死刑にできなかった凶悪犯罪者』を回してくるという話を気にしているのですか? 一応報告しておきますが、私はそちらへは手をつけていませんよ。彼らは十字教ローマ正教派の信徒であり、この私が救うべき対象ですからねー。私の部下は人材確保と言うとすぐに犯罪者を持ち出してくる癖《くせ》があるようですが、それはいけません。的として消費するならローマ正教徒以外の者でなければ」  これが左方のテッラにとっての『平等』。  世界全人類を救うと言っておきながら、そもそも『人間』として扱う区分がとても狭い。 『人間』としての条件に当てはまらない者は家畜として扱っても構わないという考え。この聖職者の根底には、そんな考えが染《し》みついてしまっている。  後方のアックアが黙《だま》っていると、テッラは億劫《おっくう》そうに続けた。 「ヤツらは一度|煉獄《れんごく》に落ちた上で、その魂《たましい》に付着した罪を洗い流す事で『神聖の国』への道を得るのです。その第一歩は我ら聖職者に命を明け渡す事にあるでしょう。それすら行えない者は、もはや煉獄へ落ちる資格もなく、永劫《えいごう》の地獄で苦しめられるだけなのです」 「……そうか」  アックアは短く告げる。 「その術式を携《たずさ》えた頃《ころ》より定期的にメンテナンスを行っていた、という事だな」 「さあ、そこをどいてくださいアックア。私にはやるべき事が山積みなのですよ。科学サイドに対する次の攻撃《こうげき》を考えなくてはいけませんし、私の優先|魔術《まじゅつ》『光の処刑』も色々と改善点というか、癖のようなものが見つかってしまいましたからねー。また、照準の微調整が必要になりそうです」 「いや、その前に一つだけやっておく事がある」  は? という言葉をテッラは口に出せなかった。  轟《ごう》!! という凄《すさ》まじい音と共に。  左方のテッラの体が、今度こそ本当に粉々に砕け散ったからだ。  後方のアックアが実行した事は、極めて単純だった。  聖ピエトロ大聖堂の天井《てんじょう》を支える柱の一本をへし折り、それを片手で振り回してテッラの体を叩《たた》き潰《つぶ》す。ただそれだけの動作が、圧倒的な力と速度によって怒濤《どとう》の暴風のように見えたのだ。  左方のテッラの誇る『優先』の魔術《まじゅつ》───『光の処刑』。  学園都市の大規模超音速|爆撃《ばくげき》すら凌《しの》いだ驚異《きょうい》の術式だが、後方のアックアはそれを使わせる事すらも許さない。  ぼとり、という音が聞こえた。  肉体のほとんどを失い、胸から上と右腕と頭部だけを残した左方のテッラだった。 「お……あ……?」  何が起きたか分からない、という表情でこちらを見上げてくるテッラ。  どうやら『光の処刑』を使って傷を塞《ふさ》ごうとしているようだが、頭の方が術式を組む事に失敗しているらしく、何も起こる気配はない。  それを、後方のアックアは蔑《さげす》みの目で見下ろしていた。  テッラの思考はまだ生きている。  しかし、この状態はテッラが作り出したものではない。アックアがあまりにも素早く殺したため、肉体の生命反応が消えていないのだ。 「ふ、は」  声とも息とも判別できない音が聞こえた。  アックアは眉《まゆ》をひそめる。  粉々に砕かれたはずのテッラは、死に怯《おび》えていない。  その表情には、余裕が残っている。 「……どうかしたのか、左方のテッラ」  尋ねてから、答えを聞く前に、アックアは答えを知った。  神聖の国。  テッラにとって死は真の救いへの過程でしかない。ここで死んだとしても、最終的に『最後の審判』で神に選ばれて『神聖の国』へ迎え入れられれば、それでテッラは救われてしまう。 (これはこれで、大した男である)  この期《ご》に及んで、まだ自分はローマ正教の教えを守り続ける敬虔《けいけん》な子羊であるつもりか。  そう考えて、アックアは思わずため息をついた。 「一つ断っておくが、貴様が神に選ばれる事は絶対にないのである。まさか、この段階から勘違いをしているとはな。地獄以外に貴様の居場所があるとでも思っているのか」  アックアの侮蔑《ぶべつ》にまみれた表情を見て、テッラの余裕が消えた。  そこにあるのは怒り。  しかし、もうアックアはまともに相手をしようとせず、極めて事務的に告げた。 「神は全《すべ》てを知っている。詳しくは、最後の審判で直接聞くが良い」  肉の塊から鮮度が落ちるように生命反応が消え、正真正銘単なる床の汚れとなったテッラからアックアは目を離《はな》す。  すると、列になって並んでいる柱の一本の陰から、新たな人影が現れた。  腰の曲がった老人───ローマ教皇だ。  彼はその辺に転がっている人肉と、アックアが床に置いた柱を交互に眺めながら、 「ここは聖ピエトロ大聖堂だぞ。そう簡単に破壊《はかい》しないで欲しいものだな」 「すまない」  非難の言葉に、アックアは素直に頭を下げた。 「歴史的、学術的な価値を考えるとここでの戦闘《せんとう》は控えるべきであった。立派な建物に傷をつけてしまったな」 「……ここは同時に、ローマ正教最大の要塞《ようさい》でもあるんだがな。そんなにあっさり壊《こわ》されると防護機能に疑問を抱いてしまう」  ふむ、とアックアは少し考えた。  やがて、彼は言う。 「それは聖ピエトロ大聖堂だけでなく、全《すべ》てにおいて当てはまる問題である。例えば『神の右席』。いかに優《すぐ》れた組織であり、有能な人材が集まったとしても、ひとたび暴走すればどこまでも破壊をまき散らしていく。ちょうど、今回のテッラのようにな」 「……、」 「貴方《あなた》は『神の右席』を目指し、神上《かみじょう》となる事でさらに多くの信徒を直接的に救おうと考えている。その意見には感服するばかりだが、しかしそれでは足りないのである」  アックアはローマ教皇の顔を正面から見据えた。 「『神の右席』が『神の右席』としての機能を維持していくためには、それを外部から監視し、導いていく者の存在が必須なのである。そして私は、その役目に最も相応《ふさわ》しいのは貴方だと考えている」  その言葉を聞いて、ローマ教皇は薄《うす》く笑った。 「『神の右席』の話を聞いた時は、これほど手っ取り早く信徒を導ける方法はないと喜んだものだがな……」  彼は笑いながら、こう言った。 「しかし神は安易な救いを望まない。どうやら私を見守る父は、よほど試練がお好きらしい」  断言する教皇に、アックアは頷《うなず》いた。  今度はローマ教皇の方が尋ねる。 「次はどう動くつもりだ」 「ヴェントは動けん。テッラも粛清《しゅくせい》した。ならば手は一つだけである」 「テッラの言う通り、ロシア経由で日本を襲撃《しゅうげき》する気か」 「今回の件で思い知った。やはり民間人は戦場に立つべきではない。刃を交えるのは兵隊だけであれば良いのである」  それは、暗に自分が打って出ると宣言しているようなものだ。  後方のアックア。  彼の持つ特性を思い返し、ローマ教皇は思わず呟《つぶや》いた。 「……『神の右席』にして、聖人としての資質をも兼ね備えた貴様が出るか」  御坂美琴《みさかみこと》は携帯電話を手にしたまま硬直していた。  スピーカーの向こうから聞こえてきた、雑音混じりの言葉を聞いて身動きが取れなくなっていた。  冷や汗が全身から噴き出しているのが分かる。  上条《かみじょう》の知る由《よし》もない事だが、彼の携帯電話は液晶画面が砕け、関節部分が壊《こわ》れて折り曲げられなくなっていても、通話機能そのものが失われた訳ではなかったのだ。つまり、教皇庁宮殿で行われた上条とテッラの会話は、電話を通じて美琴の耳にも届いていた。  美琴は二人が交わした会話の大半を理解していない。  いや、たとえ理解していたとしても、その大半を忘れていただろう。  彼女の胸を締《し》め付けているのは、たったの一言だ。 「……、」  口に出そうとして、美琴は声が出ない事に気づいた。  震《ふる》える手を動かし、何とか携帯電話の電源を切って、繋《つな》がりの絶たれた電話をしばらく眺める。体の震えが収まるまでじっとしていようと思ったのだが、いつまで経《た》っても収まる様子はなかった。  それでも少しずつショック状態から脱してきた美琴は、今度こそ唇を動かす。意図していないのに、不気味なぐらい掠《かす》れた声が自分の口から放たれるのが分かる。  彼女が放ったのは、小さな声だ。 「……忘れて、いる……?」  言葉に出してから、御坂美琴はその意味についてもう一度考えてみる。  記憶喪失《きおくそうしつ》ですって? [#改丁] [#ここから3字下げ]  あとがき [#ここで字下げ終わり]  一巻ずつ手に取っていただいたあなたはお久しぶり。  全部まとめて買っていただいたあなたは初めまして。  鎌池和馬《かまちかずま》です。  さて、色々と動き出した一四巻です。今までシリーズ中ではあまり触れてこなかった、いわゆる保留にしてきた問題をこの辺りで一気に出してみました。  全体的なテーマは『集団』。オカルトキーワードは『最後の審判』といった所でしょうか。直接的なものはもちろん、その『最後の審判』に関する間接的なものもいくつか組み込んでいます(分かりやすい所だと、『原罪』や『ミサ』など)。  ……というか、十字教関連の話ならどれを取っても『最後の審判』に関《かか》わっている気もしますけど、ようは『いつもより意識した』という感じでしょうか。  どちらかというと魔術《まじゅつ》サイドっぽい話になりましたが、学園都市の新兵器がどっさり山ほど出てくるため、科学サイドなあなたも安心な作りになったかな、と思います。  イラストの灰村《はいむら》さんと担当の三木《みき》さんには感謝を。色々とごちゃごちゃした話ですが、お付き合いいただいて本当にありがとうございます。そして今回は真中純一《まなかじゅんいち》さんにも感謝を。ステルス機の仕組みなど軍事方面のレクチャーはとても役に立ちました。さらに福島由布子《ふくしまゆうこ》さんにも感謝を。イタリア語の監修はとても助かりました。  読者の皆様へ。このシリーズもSSを含めればもう一五冊目となります。ここまでやってこれたのは全《すべ》てあなた達《たち》のおかげです。これからもよろしくお願いします。  では、この辺りでページを閉じていただいて、  次回もページを開いていただける事を祈りつつ、  今回は、この辺りで筆を置かせていただきます。  さて、『神上』と『神浄』の違いとは……?[#地付き]鎌池和馬 [#改丁] 底本:「とある魔術の禁書目録14」電撃文庫、メディアワークス 二OO七年十一月二十五日 初版発行